「感情密度」という言葉を作ってはどうだろうか。
その空間に満ちている感情の強さの度合いを表す表現。集まった人々の感情が高ぶっている空間を「感情密度の高い空間」と表現してはどうか。
怒りであれ、悲しみであれ、喜びであれ、驚きであれ、強い感情が高まり、集積し、相互に影響しあって更に高まりを見せている状態。
感情密度が高い空間では、何か材料が投げ込まれると、たちどころにそれが燃え上がり、炎が炎を呼んでさらに強い感情を呼び起こす。
その空間は物理的な空間に限られない。ネット上の言論空間にも感情密度という尺度は妥当する。
感情密度が高い空間には、独特の圧迫感がある。感情を揺さぶられていない事自体を責められるような、居心地が悪いような、何かしら自分も同調すること(あるいは反発という形であれその高ぶりへの何かしらの言及を)を強いられるような傾向がある。
やがて一定の時間の経過とともに、感情密度は急速に低下し、事態は沈静化する。
しかし感情密度の高い空間では、やがて別の燃料が投下され、また容易に燃え広がる。その繰り返し。
なんでそんなことを思ったかというと、昨今のTwitter(X)に僕が感じる違和感を表現するのに、この「感情密度」という言葉の補助線を用いることで説明しやすくなるのではないか、と考えたからだ。
最近のTwitter(X)は「感情密度が高い」ように思われる。
最近のTwitter(X)に感じる違和感というか、忌避感は、この感情密度の高まりに対する、本能的な警戒感なのではないかと思う。
感情密度が高まった空間での、他者の刃が自分に向くことへの懸念というよりも、自分自身がその場の放つ膨大な熱量に絡め取られてしまうのではないか、というおそれの方が強いかもしれない。
ネットで軽く検索してみたところ、この「感情密度」という言葉を使っている例はあまり見つけられなかった。
とはいえ元ネタはあって、憲法学に「規律密度」という概念があるのだった。
憲法の条項を検討するときに、その条項が対象としている領域において、どの程度のきめ細やかさで憲法がルールを定めているかの度合いをあらわすのが「規律密度」という概念だ。
例えば国会の領域については41条から64条まで24条あり、憲法全体の中でみるならば、比較的に規律密度が高い領域といえる。
一方で、地方自治の領域については92条から95条までの4条に過ぎない。また、諸外国の近代憲法では多く憲法上の規定がなされている政党の領域については、日本国憲法ではそもそも1条も定められていない。これらの領域は規律密度が極めて低い、と表現することができる。
ここでは憲法の議論がしたいのではなく、この「規律密度」という物事の眺め方で、解像度が上がるという体験があったので、これと同じような補助線を「感情密度」ということばで引けないか、ということを書きたかったのだった。
そんなことをつらつらと考えている。