なんだか良くわからないタイトルの本である。
「忘れられた日本人」というのは民俗学者宮本常一の古典的名著で、私も名前くらいは聞いたことがあったが不明にして読んだことはなかった。また、それを紹介しつつ再解釈した畑中章宏の新書「宮本常一ー歴史は庶民が作る」も読んでいなかったので、その副読本として編まれたというこの対談集のそもそもの出発点がいまひとつピンとこないというのが第一感だった。
とはいえ一度ページを捲るとそれはいつもの若林対談文体で、すんなりと頭に入ってくる。
グレーバーの民主主義論の根底にあるのは、「自分たちの問題は、自分たちで解決する」のが民主主義の原理だとする考えだと思うのですが、その見方からすると、わたしたちが生きている民主主義は、「自分たちで「実施」する」という「アクション」の部分が決定的に欠けているのではないかと思います。p.54
更に
思うに、わたしたちが理解している民主主義のひとつの大きな問題は、「意思決定」と「実施」が明確に区別され、かつ「意思決定」が「実施」に対してあまりに優位化され、さらに「意思決定」と「実施」の距離があまりに離れてしまったことで、「実施」がブラックボックス化してしまったところにあると感じます。p.59
これは行政現場をみていて、つくづく感じるところでもある。
宮本常一と畑中章宏の本も注文したのだが、加えてグレーバー「民主主義の非西洋的起源について 「あいだ」の空間の民主主義」が読みたくなって注文してしまった。
それはそれとして、個人的にアイタタタと思ったのはこの一文。
多数派の決定を快く思わない人々を当の決定に従うように強制する手段が存在しないのであれば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは公の場でなされる勝負であって、そこでは誰かが負けをみることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするには最適の手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねない。p.42
うむむむ。
とはいえ、当該コミュニティのリソースの使途を定めるためにはどこかのタイミングでの「何らかの手段」での意思決定が必要となる。株式会社や行政機構のように明確なルールに基づいた「強制手段」を持つ集団はむしろ例外的で、自発的な参加の連なりとして形成されたコミュニティというものが社会には存外多い。
そういったコミュニティを「強くする」方向での運営の難しさ(あるいは不可能性)について、改めて考えさせられる一節だった。