ジェイムズ・ジョイスと新しい世界

いかんいかん、つい、読まれることを意識して、最低限の「意味」のある文章を書こうとしてしまう。

「意味」は何らかのオチでも良いし、何がしかの有益な情報でも良いし、整った構成でも良いし、言葉の勢いでも良いのだが、ともかく何らかの「構造」のある文章を書こうとしてしまう。自然とそうなってしまう。

そうすると、力みが生じる。力みが生じると、文章を打ち込むことが億劫に感じてしまう。それだけでなく、何らかの「構造」で切り取った反作用として、こぼれ落ちてしまうものがあまりに多いのだ。

これが良くない。

典型的には法律家の書く文章というやつで、主体と客体、権利と義務、事実と評価を峻別するなどと偉そうに言うが、それは自分たちの同族と会話するための「ローカル言語」で無理やり世界を切り取って見せているだけで、その過程でこぼれ落ちてしまうもののほうが遥かに多いのだ。

ともあれ、長年の「大人」としての生活の中で、凝り固まってしまった(型にはまってしまった)自分の言語表現の枠を、もっと柔軟なものに変えていきたい。

そうすることで、ここからの後半生、もっと楽しめるようになるんじゃないかと、直感的に思っているところがあるのだ。

高校生の頃、はじめてジェイムズ・ジョイスのフィネガンズ・ウェイクを読んだときは衝撃的だった。

どんな文章だったかなと検索するとすぐに出てきた。

「川走(せんそう)、イヴとアダム礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今(こん)も度失せぬ巡り路を媚行(びこう)に、巡り戻るは栄地四囲委蛇(えいちしいいい)たるホウス城とその周円」

読んだ当初、全くなんのことか分からなかった。ちなみにいまも全く分からない。ただ、この文章が高名な作家の立派に装丁された一冊の本(というか確か上下巻2冊だった記憶がある)の冒頭部分であり、それがそれなりに多くの人々から評価されているということの面白さ、表現というものの奥深さ、こういう文章表現もありなんだ、という衝撃を受けたのだった。

原文がどんな英語になっているのか気になって、家族旅行でシドニーを訪れた際に一人抜けて図書館を訪ねて、その部分だけコピーしてもらったのも良い思い出だ。あの頃はまだインターネットもなかったし、国内の図書館で原書を調べるという方法も知らなかった。

それがいまや、珈琲片手にパソコンを叩けばすぐに出てきて左から右に切り取って貼り付けられるのだから、あの頃とこの頃と、もはやこれは別の世界に生きていると表現しても良いように思う。

たった30年でこれだけ変わるのだから、次の30年でも同じくらい、あるいはもっと、「別の世界」になっていくのだろう。

ワクワクする気持ちを抑えられない。

などと書いていると、まだまだ「構造化」の癖が抜けないなと痛感する。まあ、このあたりの「解体」は徐々にゆるゆると取り組んでいこう。

@kappamark
のちの自分のために、思考の断片を一旦メモしておく場所としてお借りしています。 外に向けて発表するために整えたりする前の素材段階のメモです。