消費多動症

karabanez
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なにかを書きたいなぁ、と思う時が2パターンある。

ひとつは心が落ち着いている時

もうひとつは心を落ち着かせたい時

前者の時はボトルメッセージなのだけど、後者の時は怪文書になる。今回はどちらかと言うと後者なので、怪文書寄りだ。

大体の事がそうなのだと思われるが、使うのは創るのに比べて圧倒的に所要時間が短くて、何かを創る側に少しでも触れていると良いワクチンになるのだけど

ずっと消費する側にばかり立ち続けていると「使う速度」に慣れていって、それがどんどんと高速化していく。

自分でも知らぬ内に、コンテンツも時間も感情も何もかもをハイペースで消費的に生きてしまう時があって

そうやって大して出力が大きいわけでもないエンジンを、妙に蒸しすぎてエンストする瞬間があって、それがちょうどこの文を書き始めたときみたいな感じだ。

作る側の穏やかさというか、思い通りの速度で進まないもどかしさに身体の感覚を馴染ませないと、速さが犠牲になることがどうにも耐えられなくなっていくようで サビまで1分かかって欲しくないし、YouTubeは2倍速だし、更新された漫画の最新話は3分で読み終わるし、配信の、切り抜きの、リプレイが1番多い数分のサムネ箇所だけを見て満足し、コンテンツの咀嚼を唾棄してやがては流動食しか食べられなくなっていく。

動かなくても手を伸ばせる距離感の引き出しの中にある、即効性のある既視感しかない言葉だけを、燃えるゴミの如く投げ捨てる。

まるでそれが本意かのように。

重要なのは同じ手間で速度を高めることであって、速度のために手間を犠牲にしてはいけないのだということを常に自戒したいのだけれど、そうもいかずにまた今日を消費する。

朝はあれほど貴重に思える30分を、布団に包まって簡単に意味も無く唾棄した果てのこういう後悔の中で「なんか書くか……」と、最悪な契機で創作のモチベーションが湧いてくるのが最悪で、今日も人生はいつも通りに最悪だ。

この人生で唯一波打つとしたらそれは心電図だよ。

なんだかんだ人間は、非日常より日常を大事にするんだと思う。

バイトに行くために自転車で海が見える道を走っていて、観光客が目を輝かせてその海の姿をレンズに納めている時に

「ああ、自分が毎日通るあの海は綺麗なんだ」と思ったとしたら、多分その海は普段より少し鮮やかな青に色付く。

それでも、そうして少し彩度が上がった視界の感動に浸ることはない。

多分自転車に乗ってる本人からしたら、バイトの時間に間に合うか間に合わないかとか、そういう日常の方がよっぽど大事だし、それを優先するのだろうと思うと少し寂しいよね。

僕らが旅行に行った時に感動するのは、非日常を大事にしているからではなく、一時だけ大事にしている日常を捨てることに悦を見出してるんだとあの時に理解した。

だから多分、色鮮やかな毎日を送る人ほど非日常を楽しむのだと思う。日常を満喫していそうな人間の非日常は、毎日なんの代わり映えもなく薄暗いディスプレイに可処分時間を囚わせて、麻痺させた報酬系でとっくに味のしなくなったガムを噛み続ける僕たちの非日常よりずっと愛らしい。

だって愚かな我々は、そういう非日常を楽しむような出力なんてどこから出てくるんだよって、不平不満を零すばかりじゃないか。

平凡すら大切に出来ない人間に、自分を愛するのは難しい。 自分を愛せない人間が、他者を愛するのは尚のこと。

他者の病んだ心に響くような、そういう文を書きたいと思う事がある。

微かな痛みを思い出させて共鳴を図り、無力より少し強い温もりで抱擁するそれは、後ろ向きな人生賛歌であり、停滞を前進として肯定する。

端を尖らせた真綿のようなそういう文を見る度に、この先どれだけの文才に恵まれて必要な修練を重ねたとしても、自分には書けない闇を飲み込んでいて感動する。 同じ質量を持っていても感じる重荷は人によって違うから、その共鳴はその疵を持たない自分では絶対に不可能なことなんだ。

気の病んでいる皆様が、むしろそういうお互いの痛みを分かちあうばかりなのは、きっとその傷を後ろめたく思っているからなのだろうけれど、それを自分でも受け入れられないからなのだろうけれど

外に出て陽の光を浴びろとか運動して健康に過ごせとか市販薬を誤用して一時の酩酊に浸るなとかそういう綺麗事を言うつもりは一切無いから、決して乱暴に触れたりしないから、貴方が望まない限り無理に治そうともしないから

痛みを知らない私にその疵を見せても構わないと、 思ってくれるかもしれない切掛を頂戴よ。