暇と退屈の倫理学という本を読んでいる。
まだ読んでいる途中だがその著書の中で退屈と生活様式の関係について書かれているところが興味深かった。
人は遊動生活(拠点を変えて転々と移り住む生活)から現代の多くの民族のように定住するようになり退屈が生まれたのだと。
遊動生活をしている間は食べるものが付近になくなったり、ゴミや排泄物で周囲の衛生環境が悪くなったら次の土地へと移動していたそう。もちろん気候など他の影響もあったはず。
そのように同じところに留まれなくなると、また新たなところへ移動しまたそこでの生活に慣れる必要がある。そして慣れるかどうかというタイミングでまた移動しなければならなくなる。いく場所によっては当然危険もあり、ついたかと思いきやまたすぐに移動が強いられることもあった。そうこうしていると当然暇などないわけだ。
ところが人類が定住するようになるとそのような外的要因から守られる。いつだって食事が確保できるし、トイレにも困らない。屋根と壁に覆われたしっかりとした家で雨風や暑さの影響も受けない。それによって人は余暇が生まれ退屈という概念が生まれてきたのだそう。
人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ
とパスカルは述べているそう。これはまさに定住生活をするようになってからの人類の不幸であると。
このあたりわかるな〜と思う。皆がいろいろと生産的に過ごしたり、家族や友人と素敵な思い出を作ったりしている中、自分は一体何をしてるんだろうなーと思ってしまうことあるよね。退屈に過ごしている時間にどこか焦りを覚えること、何かしなれけば!と思いながらも虚無に1日が終わり嫌気がさすことなどあるあるすぎる。
遊動生活とは文字通りコンフォートゾーンを出ることだ。やはり日々の退屈を打ち壊すにはそれしかないのだよなというのも改めて感じるところだ。コンフォートゾーンから出ることは自分のモットーにしているつもりなのだけれど、歳をとるごとに現状維持バイアスが強くかかってしまっているな。
出よう、出よう。
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