「かっつぇさ~ん一番奥の席へどうぞ~」
歯科助手のお姉さんの軽やかな声色とは裏腹にぼくの気持ちはひどく沈んでいたのです。 10歩にも満たない診療台までの距離がとても長く、いつもよりもゆっくりと、背中を丸めて歩いたことだけは覚えています。
歯科助手のお姉さんから簡単に、右奥の親知らずを抜くこと、根っこが深いので治療はちょっと大変であることが説明された後、やがて口の中に薬をしみこませたガーゼ(なんの効果があるかはやはり説明されない)が歯茎と頬の間に詰め込まれ、ああ、いよいよ治療(という名の暴力)が始まるのだと悟りました。
さながら電気椅子に座らされたぼくは(実際には横になっていたのだけれど)そういえばジョン・コーフィはあの時泣いていたんだっけか、それとも神への祈りを捧げていたんだっけか、などとぼんやり考えていました。
どうやら詰め込まれたガーゼは麻酔薬のようで、注射による痛みを緩和させるもののようでした。 その薬が効き始める間、歯科助手のお姉さんが、これから飲むことになる薬の説明を始めたのです。
「これは抗生剤と胃薬ですので、毎食後に飲んでください」 「痛み止めは3回分出ますねーまぁ抜いた後の状況によっては増えることもあるんですけどね~ふふ」
何が可笑しいのかぼくにはさっぱりわからなかったんですけど、笑うタイミングだったみたいです。 どうやらここの歯医者は歯科助手も一言多いらしい。 そうこうしているうちに先生がいらっしゃって
「かっつぇさんね~今から右上の親知らず抜いてくんですけどねぇ~根っこが立派だからねぇ結構力入れていくんですけどねぇ~ちょっと大変かもなァまず麻酔打つのでね~」
とのありがたいお言葉を賜りまして麻酔の注射を打ってくださいました。 歯医者じゃなかったらグーが出ていたかもしれません。 麻酔の注射は普通に痛かったです。
麻酔の注射が終わるとぼくの緊張はピークに達していて、うがいをしようとコップに伸ばした手が震えているんですね。 あ、これダメかもしらん と思ったタイミングで先生が
「じゃあ抜いていきますね~席倒しますね~」
もうぽっきり心が折れました。 タイミングが完璧なんです。もしかしたら歯の治療より人の心を折るのが得意なのかもしれません。 そこから先はよく覚えていないんですけど、なんかぐらぐらぎこぎこよくわからない感触だけが頭の中に響いていました。 いつの間に歯が抜けたのか、今何の治療をしているのかがわからないまま時が過ぎ、先生の
「はーい終わりましたよー」
の声でやっと解放されたのです。
「最初はねぇやっぱり大変だったんだけどねぇ綺麗に抜けて思ったより出血もなくてねぇ大丈夫そうだねぇ」 「抜いたところと副鼻腔がすーごく近くてもしかしたらこっちも腫れるかもしれないねぇ~腫れたら結構いたいからねぇ~」
こいつ、また余計なことを… まぁいい、とにかくぼくはやりとげたのです。 誇らしげに止血用のガーゼと勝利の余韻を噛み締めるぼくに先生が言うのです
「じゃあ次回は左上ね」