「好き、と思うたび何も見えていないような気もする」

kawa
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最果タヒさんの「推してるより、愛してる」第二十三篇の出だしを噛み締めている。

「好き、と思うたび何も見えていないような気もする」

あー、この感覚ってあるなと思った。

好きな人を「自分の思う好きな人」の枠に入れて見ているだけなんじゃないか、と思うことがある。そして定期的にそれに悩んでいる。

風磨くんは「見られる」ことに慣れている印象があるので、きっとインターネットの海の端っこでファンの一人が風磨くんのここが好きだのなんだの言っていてもあまり気にしないでいてくれると思う。「あなたはそう思うんだね(俺はこうだけどね)」ができる人……というイメージ。まあこれもイメージなんだけど。

でも仮に風磨くん自身が気にしないとしても、私が気にする。自分は風磨くんじゃなくて風磨くんだと思っている別の何かが好きなだけなんじゃないかと悩む。

たとえば「顔が好き」「歌声が好き」「ダンスが好き」なら、誰が見てもそこにあるものを好きだと思うかどうかの話なので悩まずに済むだろう。「ライブでもらったあのファンサがきっかけで好きになった」といった場合もそうだ。

でも自分はSexy Zoneを応援する中でだんだんと風磨くんを好きになっていったタイプだ。活動を追い、インタビューを読み、トークを聞き、ああ好きだなあと思うようになっていった。インタビューやトークもそこにあるものだが、読んだ後に思う「風磨くんはこういう人なんだな」を挟んだ上で好きでいるような感覚がある。

こうやって解釈を挟んでいるがゆえに「私の思う風磨くんを作り上げてそれを好きでいるだけなんじゃない?」と思ってしまう。

担当が決まる前、ずっと風磨くんが好きな理由を探してきた節がある。しかし風磨担の意識を持ってからは逆に好きな理由の中に風磨くんを押し込めていないか不安になることがある。

だから瞬間的に「あ、好きだ」と思ったときは、それを捕まえておきたい。「やっぱりこういうところが好き」というある種の再確認ではなく「理由はわかんないけどなんか好き」という気づき。これをちょっと大事にしてみようと思う。

でもな〜、風磨くんは「推し!好き!」というより「担当領域として研究した結果こういうところが好きだと判明しました」って感じなんだよなあ。その研究のような向き合い方に不安感を覚えつつも結局そういう向き合い方になってしまうんだよなあ。

たとえば綺麗な星が見えたとして、その瞬間の美しさに心を奪われるだけではいられなくて、昨日との変化を探したりその星がなぜ輝いているのかを知りたくなってしまう。なるほどそのようにしてこの星はこうあるのだなと分かりたくなる。

ただ、この知りたいと思う気持ちは恋愛感情やオタクの支配欲かと言われるとそうなのかしら? と思う。あくまでファンとして好きだし、本人が伝えたくないことまで知りたいとは思わない。

でも本人の伝えたいことはちゃんと受け取りたい。ただまあストレートに表現しないことも多い方なので「しっかり受け取った」と「私の思いたいように受け取った」はグラデーションなのだけれど。これが悩ましさの種なのだけれど。

こんなふうに「わー!好き!」だけではいられないから、私は風磨くんを「推し」じゃなくて「担当」だと思っている。不思議とぐるぐる考えちゃう人。私の頭と心に「菊池風磨担当」の領域を作ってきた人。「誰推しなの?」と聞かれて「ケンティー……?」と答えそうになるほど、推しというより担当だと思っている(それもどうなんだ)。

ま、時々最大瞬間風速がものすごい「好き」が吹いて、ぐるぐるを飛び越えて咄嗟に大声で好きだと叫んでいるときもある。

うむ、とても楽しそう。

何も見えてないかもしれない。素直さや可愛げもなくぐるぐる考えこんでいるかもしれない。

それでも昨日も好きで今日も好きで、明日もたぶん好き。好きでいてよかったなあと何度でも思うし、好きだと思わせてくれてありがとうと何度でも伝えたい。

@kawa09231116
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