公園のベンチに缶コーヒーを片手に座る。
最近は、桜も冬に咲いて早く散るようになった。
春は、もう無くなりつつある。
ぼんやりと他人の行動を眺める。
犬と散歩する者、ランニングをする者、弁当を広げる者…様々な行動で満ち溢れているが、よく目につくのは家族だ。
幼い子供を連れた、家族。
そういえば、今日は外に洗濯物を干してくれば良かった。
こんなにも良い天気なのに。
桜を眺めながらベビーカーを押したり、抱き上げて子供が小さな手を伸ばしたり。
そういえば、洗い物をしてくるのを忘れた。
早めに帰ってやらなければ。
妬む気持ちすら起こらない。
人の幸せを同じように喜べる人間になれたら良かった。
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「お隣、いいですか?」
「え、あぁ…どうぞ。」
栗色の長い髪の女性が尋ねてくる。
彼女の体には小さな弱い命が有るようだ。
僕は缶のココアを飲みながら、隣でただ黙っていた。
「最近は、暖かくなり始めると桜が咲くから…春が分かりやすくていいですよね。」
「え?あぁ、まぁ…」
突然話しかけられるから少しぎこちない返事になってしまった。
これだから僕には出会いがないのだ、出会いはきっと自分から野生へ逃しているのだろう。
「この子、もうすぐなんですよ。」
女性がお腹を撫でながら微笑んで語り始める。
まぁ、口下手な僕が変に話をしなければならないよりも全然良いかと思い、静かに耳を傾けた。
「…とはいえ、父親は居ないんですけどね。」
「はぁ。……え?」
聞き流して終わらせようと思っていた僕から気の抜けた声が出る。
仮に、本当にそうだとして、付け足しのように言うのが今は普通なのか?
いや、そんな事聞いたことはない。
「居ないんです、この子の父親。
…こんな事、他の人に言うことでもないかもしれないけど。
私、母親になるでしょう?というか、この子が私を選んでくれた時からもう母親ではあるんですけどね。
でも、この子が人として産まれたら余計に、私は強くならなきゃいけないと思ってるんです。
浮気されたー…とか、捨てられたー…とか、そんな事引きずってる暇は無い。この子が幸せだって胸張って色んな事できるように、私はドンと構えていてあげたいんです。」
子供の居る腹を撫でながら、俯きながら自分に言い聞かせるように女性は話し続けた。
髪の毛で隠れて表情は見えない。頬は乾いているから、泣いてはいないようだ。
「でも、ね。この子が産まれる予定日が近づくにつれて、何だか辛くなってしまって。
…強くならなきゃって思うほど、辛くなっちゃって。母にはそんな事言うと心配かけるし、迷惑かけたくないから笑って見せるけど、本当は何だかすごく寂しくなってしまって。」
女性は少し顔を上げて、手を繋ぐ3人家族を見る。
「…私がどれだけこの子を愛しても、この子がどれだけ私を愛してくれても、やっぱり父親の穴は埋まらないんです。でも、それで私が挫けるわけにはいかないのもわかってる。
…それを理解すればするほど、強くなるほど、なぜか寂しくなる。」
顔をまっすぐ桜の木に向けたまま、女性は呟く。
「…だから、少し被害者になってみたくて。
浮気されて捨てられて、この子をこれから父親無しで育てていくって…見知らぬ貴方に言えば、何だか少し弱くなれる気がして。」
顔を歪ませて苦しそうに口角を上げてこちらを向いた彼女を、なぜかとても強く感じた。
「…最低ですね、私。すみません、忘れて。
…弱くはなれないんです、これから私はどんどん強くなる。それを望もうが、望まなかろうが、私は人として、母親として強くなってしまう。
…この子にもきっと聞こえちゃうから、もうやめます。弱くなりたいとか、そんな事言っちゃこの子を授かったことを悔やんでいるみたいですもんね。」
「べつに、弱くていいんじゃないですか。」
僕は既に飲み干したココア缶を、忘れてまた口につけて飲む仕草をする。
あぁ、もう中は飲み干していたか。
「僕の母親、好きじゃないです。嫌いです。
大人だから自分はいいけど、お前は子供だから駄目って言ってみたり、大人なんだから自分で金払えって言ってみたり。
…金のことしか言ってこない。金を払らうのはこっちなんだから、言う事を聞け、これは自分のものだって、お前に使わせてやってるんだってそんな主張ばっかりです。
だから、嫌いだ。
…弱くていいと思います。親だって弱いことを知っていれば、僕はこんなに捻くれなかったと思う。
ちゃんと、一人の一緒に暮らす他人として寄り添えたと思う。
自分だって弱いし、親だってきっと弱い。
変に虚勢を張って、子供より差のある財力と暴力を振りかざして子供を従わせるより、お互いの弱さを分かって、実の子供にもちゃんと謝れる親の方がよっぽど好きだし、威厳があると思う。」
話し終えて女性の顔を見ると、口を少し開けてこちらをただ見ていた。
「…すみません、長々とこんな持論。」
「んーん、すごい。すごいよ、感動した。」
僕の手をココア缶と一緒に触って、こちらを見てくる。
「そんな風に考えたことなかった。
強くならなきゃ、この子を守らなきゃってそればっかり。…そうだよね、私だって人間だもんね、子供も私も人間だから、どこまで歳重ねても弱いところはずっと弱いよね。」
何かが吹っ切れたように、頷きながら、明るく笑いながら僕の言葉を反芻する女性は、まるで小中校生の女児のようだった。
春の温い風が僕と女性の顔を撫でる。
「こんなに笑ったの久しぶりかも。
ずっと強くならなきゃって思ってたからさ、自然と眉間にシワ寄ってたんだよね。」
ほら、こんな感じ?と言って、眉間にシワを寄せて僕の方を見る女性。
その顔があまりにも可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
「そうだ、連絡先交換しようよ。子供産まれたら連絡するからさ、この子の顔見に来て?」
「そんな事しないほうがいいですよ、危機感って無いんですか。」
「そうやって注意する人は何もしないもん。」
「あの、そういう事じゃなくて、今ここで初めて会った僕が子供の顔見に行くなんて傍から見たらおかしいですよ。」
「えー?だって、私のこともこの子の事も君は今救ってくれたんだよ?きっとこの子もお腹の中で、肩の荷が下りたって安心してると思う。
大袈裟に言うと、君は血の繋がってないこの子の父親!」
「大袈裟過ぎます。」
呆れた。この人本当に僕より年上か?
「ほらほら、いいから!」
「あ、ちょっと…」
女性に携帯を奪われて、連絡先を登録される。
栗木春。彼女の名前のようだ。
「お、唯朔君かぁ、なんか冬っぽいね。」
「よく言われます。」
「お見舞いとか来てよ。今は安定期だけどさ、中々外歩くのって大変なんだよね…お腹重いし、他の人の目気になるし。」
病院と病室の番号がラインで送られてくる。
最初はよろしくお願いしますとかじゃないのか?
「じゃあ、私そろそろ帰るね?」
「あぁ、送ります。何かあったら大変なので。」
「そんな気遣わなくていいよ、大丈夫。
大学生でしょ、その学生証つけてる人ここら辺でよく見るよ。学生は勉強勉強!」
「うるさいです、妊婦は何が起こるか分からないんですから。…今は空きなので時間は大丈夫です、送ります。」
それでも大丈夫と言い張る女性をなんとか説得して病院まで送り届ける。
帰る時間より遅くなったのか、エントランスで看護師が待ち構えていた。
「栗木さん大丈夫?!何もない?!」
「すみません、この子と話し込んじゃって。」
一言挨拶をして、看護師さんに栗木さんを引き渡す。
「ありがとうね、風間唯朔君。」
「え…あ。」
学生証を付けたままだったのをすっかり忘れて病院に入ったために、看護師にフルネームを読まれてしまった。
「何も悪い事してないんだからもっとシャキッとしなよ!」
「栗木さんはとにかく早く病室戻りますよ。」
看護師に連れられて栗木さんは病院内へと入っていった。
また来てね、なんて最後まで手を振ってきたから控え目に手を振り返したけど、すぐに看護師に前を向くように諭されてこちらを見なくなってしまった。
さて、これからどうするか。
栗木さんは是非とも僕に来てほしいと言ってはいるものの、それが建前の可能性は高い上に、本当に顔を出したらただの可笑しい人ナンバー2だ。
やはりここは穏便に、相手が何か言ってきたらそれを聞くのが一番だろう。
話をするだけなら、ラインを交換したから通話でも良いわけだし。
そんな事を考えで自分の中で勝手に納得していると、ラインの通知音が2度ほど鳴った。
誰だろうか、学校からの呼び出しか?
【いさくくん!!
看護師さんに、風間いさくって人が来たら面会通してって頼んでおいたからいつでも来てね!】
【いさくくんの漢字って変換に出てこないからよくわかんなくて平仮名にしちゃった。ごめんね。】
…いや、本気なのかよ。
本当にこの人大丈夫だろうか、僕の他にも色んな人に連絡先振りまいてないだろうか。
そういえば、自分の母にはこんな相談できないとか言ってたから、お母様がさすがに危ないと止めて、僕の連絡先も消すことだろう。
ここは…とりあえず流すか。
【ありがとうございます、授業や課題の状況を見ながら、顔出しますね。】
うさぎのいさくスタンプを送って携帯をポケットに突っ込む。
…まだ次の授業まで時間はあるし、スタバにでも寄るか。
スタバで席をとってホットコーヒーを頼む。
温い風が吹くとはいえ、やはりまだ僕は肌寒さが抜けない。
【いさく君って彼女とか居ないの?】
コーヒーを吹き出しそうになる。
Twitterで推しの微えっちな画像を保存したと同時に通知バーでこんなことを聞かれれば、誰でもそうなると思う。
吹き出さなかった僕を褒めてほしい。
【なんでそんなこと聞くんですか、セクハラですよ。】
【違うよ!!彼女が居るなら、いさく君が産婦人科なんて出入りしてたら変な勘違いされると思ってさ。】
彼女なりの気遣いだったようだ。
にしても、もう少し聞き方というものがあるだろう。
【居ないので変な気遣いいらないです。】
【いないの?!寂しいなぁ。】
お節介だな。こういう所は年上という感じがする。
寂しいだなんて他から言われる筋合いはない。
…両親からようやく離れられたのに、再び誰かと暮らすなんて以ての外だ。
【さっきお母さんに君のこと話したら、良かったわねって嬉しそうにしてた!】
【一体どう美化すれば僕の存在を良かったと言えるんですか。】
【公園で会った大学生のいさく君と話してたら悩みに答えが出たって言った。】
答えを出したのも僕の持論を受け入れたのも全て自分の意志なのに、随分と僕を美化しているようだ。僕はただの親不孝者なのに。
そして、お母様が僕を危ないと判断して連絡先を消し、僕と栗木さんの連絡が絶たれるという事も無くなってしまった。
本当に危機感というものが親子揃って欠け過ぎてはいないだろうか。
【検査の時間だからまた今度ね!】
【頑張って下さいね。】
いさく応援!のスタンプを押して、Twitterに戻る。
まぁ、あれだけ純粋だから恋ができるし結婚できるし…そして浮気もされるんだろう。
純粋すぎるのも考えものだ、本当にこの先大丈夫だろうか。
その日から一週間が経ち、日に日にまだ来ないのかと栗木さんからの催促ラインが増えてきた。
そろそろ観念して顔を出すか。
そこでガツンといってやろう、こんなことはやはり危ないと。
「あの、501号室の栗木さんの面会に来ました、風間唯朔です。」
「あぁ、貴方が!」
「え?」
「栗木さんが公園で仲良くなったって言った日から、彼女は貴方の話ばかりなのよ。
相当待ってるみたいだから、是非沢山話してあげて。」
「は、はぁ…」
間延びした返事が口を出る。
そんなに僕のことで話すことなんてあっただろうか。
501号室であることを確認してドアをノックする。
個室のようだ。
「風間です。」
「どうぞ〜」
中に入ると、公園で会った時とは違い、病院服を着てベッドに寝ていた。
「やっと来てくれた!」
「あまりにも催促されたので。」
「そりゃあするよ、全然話し相手いないんだよ?看護師さんだって忙しいだろうからあんまり引き止められないし、でも今更知らないカウンセラーの人とか来られても緊張するし。」
「僕もつい一週間前までは知らない人でしたけどね。」
「それはまた違うじゃん。」
そんな会話をしながら、栗木さんは体を起こしてベッドに腰掛けた。
「これ、お土産です。僕なりに調べたんですけど、安定期ならゼリーとかのほうがいいかと思って。」
ネットで探した無添加のフルーツゼリーを渡す。
「え、お土産までくれるの?ありがとう!
そうなの、さっぱりしたもの食べたくてさぁ〜」
喜んでもらえたようだ。
妊婦なんて身近に居ないから散々悩んだが、どうやら正解のよう。
「…お腹の方、どうですか。」
「んー?順調だよ、検査結果もバッチリだって看護師さんからも言ってもらえたの。」
「そうですか、何もないなら良かったです。」
「あ、そうそう。もう少ししたらお母さん来るから顔見せてあげてよ、唯朔君がどんな人か気になるんだって。」
は?…お母様と会えと?
何を言ってるんだ、一週間前に公園で会っただけの見知らぬ大学生にお母様を紹介するのか?
この人に、危機感というものが本当にないんだな。
「あの、本当にやめたほうがいいですよ。」
「なにが?」
「今ここで僕がナイフ出して貴女を刺しても誰も駆けつけられないんですよ、個室だし、貴女は素早く逃げることもできない。
分かりますか、貴女は今妊婦なんです、すぐに走って逃げられないんです。
お腹には子供がいるんですよ、自分だけの体じゃないんですよ。もっと危機感持ってください。
こうやって易々と個室に公園で話し込んだだけの大学生入れて、本当に危ないですよ、僕が今何かしない確証なんてないでしょう。」
僕が一気に捲し立てると、栗木さんは笑い始める。
何がおかしいんだ、本当に。
「そんな事しないの知ってるもん、何となく分かる。私に何かするんだったら入ってきてすぐにするでしょ、わざわざ無添加のゼリー取り寄せたりしてくれないでしょ。
…私だって、何度も恋をして一度は結婚までしてる大人なんだよ?君がそんな事しないのくらい分かるもん。」
栗木さんは、静かな水面のように凛とした顔をして僕を見つめてくる。
「まぁ、結局浮気されちゃったんだけどね。」
少し寂しさを混じえて目線を落とした。
「…貴女が信じたいなら、信じてればいいですよ。
でも、僕が何もしないなんて言ってませんからね。」
「はいはい、分かったってば。唯朔君以外の人には、見知らぬ人に話しかけたり連絡先渡したりしないって。」
「当たり前です。」
栗木さんはその後、何時間も僕を相手に喋り続けた。余程、話したいことが溜まっていたようだ。
しかし不思議と煩わしく感じなかったのは、全てが大きなイベントでは無いからだろう。
食事中に会ったおばあちゃんに折り紙を貰ったとか、窓から見える道路が新しく通学路になったとか、生きていれば誰でも出会い得る小さな変化をとても嬉しそうに彼女は語るのだ。
「はぁ〜、楽しかった!」
「随分溜まってたみたいですね。」
「そりゃあそうだよ、母もまだ仕事してるから私は特にリスクもないけど入院してるの。
一緒に居られる人が居ないと何かあったときに放ったらかしになっちゃうでしょ?
でもそうするとさ、中々こうして話せる人って居ないんだよねぇ。」
「まぁ、病院ですからね。」
そんな事を話していると、病室のドアがノックされる。
お母様だろうか。
「どうぞ~、お母さんでしょ?」
「あら、よくわかったわね。」
「来るって言ってる人お母さんしか居ないもん。
…ん、この子が唯朔くん。」
「勝手にお邪魔してしまってすみません、風間唯朔と申します。〇〇大学3年です。」
「あらまぁ大学生って聞いてはいたけど、随分しっかりしてる子ねぇ。街中で見るチャラチャラした子達とは大違い。」
そのチャラチャラしているのは一部分であるのと同時に、僕自身そういう奴は嫌いだ。
何かにつけてゲラゲラと大袈裟に笑ったり、自分達がつまらないと他人に迷惑をかけてまで何か事件を起こそうとする。
最悪だと思う。自分がつまらないなら、自分や周りだけが楽しめて他に迷惑をかけないことをしてほしい。
「挨拶してみてよく分かったわ、やっぱり全然大丈夫な子ね。」
「ほら言ったじゃん、お母さんは警戒しすぎだって。」
「今回はお母様が正しいですよ。」
お母様も加わり、さらに数時間話し込んだ。
内容は主に、この部屋から見える変化や、栗木さん…春さんが良いと感じた小さな事だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
「栗木さーん、栗木春さーん、検査のお迎えに来ました。」
「あ、はい!」
「あら、まだ唯朔くんと話してたの?」
「中々話せる人って居ないからつい楽しくて。」
「そう、それは良かったですね。
それじゃあ検査行きましょうか。もう少しでこの子とも会えるから、一緒に頑張りましょう。」
「じゃあ、私達はそろそろ帰るわね。」
「では、僕も帰りますね。」
「うん、またね!」
看護師と共に春さんが部屋を出ると、僕とお母様も帰る準備に取りかかった。
「唯朔くん、本当にありがとうね。」
「え、何がですか?」
「娘のことよ。春のこと。…あの娘、ずっと落ち込んでいたのよ。不倫のことは聞いたでしょう?
それがあってから、日に日に表情は険しくなるし、明らかな無理をするようになったの。
以前や今みたいに本当はとても無邪気な子なんだけどね、落ち込んでずっと黙って窓の外をボヤーっと眺めるだけで。」
「…そう、だったんですね。」
一週間前に出会った時のことを思い出す。
隣に座っていいかと聞かれて返事をしただけだ、顔はよく見ていない。話している時は髪が邪魔をして見えていない。
しかし、僕が持論を話し終えた時の無邪気な顔は、何かから吹っ切れたことが手に取るように分かった。
「唯朔くん、こんな事言ったら変だろうけれど…娘のこと、お願いしたいの。」
「…お願いしたい、というのは?」
「あの娘、結婚してからも段々と静かというか大人しくなるというか…とにかく、色々我慢していたみたいで。それで浮気されたから余計に塞ぎ込んじゃったんだけれどね。あの娘があんなに前みたいに無邪気に笑えるなら、きっと貴方なら大丈夫だと思うの、だから…」
お母様は片付ける手を止めて僕に向き直る。
「あの娘を、幸せにしてあげてほしいの。
…お願いします。」
「あ…頭を上げてください…!」
「いいえ、貴方が頷いてくれるまで上げない。
ついこの前出会って仲良くなった大学生の子にこんな事頼むなんてどうかしてるとは自分でも思う。だけど、さっきも話したように、あの娘は結婚してからどんどん大人しくなっちゃって、色々我慢しちゃってたの。
…あの娘があの娘らしく居られる相手は、きっと貴方なのよ。」
大変なことになった。
春さんと話していてそんな事は微塵も考えていなかったし、ただの歳の離れたお友達としてしか思っていなかった。
それはきっと、彼女も同じだ。
確かに春さんは無邪気だ。純粋で、一緒に話していると和むこともよくある。
でも、それを僕は春さんへの好意かと聞かれたら、それは分からない。
まだこれから関わってみなければ、この感情に変化があるのか、ないのか、それすら分からない。
「…申し訳ないですけど、それは頷けません。
…僕は春さんを歳の離れたお友達だと思っているし、それ以上ありません。それはきっと春さんも同じです。春さんは、また恋をするかはわからないけど、妥協して僕と一緒になるのは春さんの幸せじゃないと思います。」
僕がそう言い切ると、お母様は涙が浮かびそうな程に顔を悲しそうに歪めて、そうねと一言零した。
…僕がもう少し早く彼女と出会って今に至れば、僕はこの申し出を受け入れることができたのだろうか。
「ごめんなさいね、そうよね。
…変なこと言ってごめんなさい、これからも来てあげて。」
「…こちらこそ、すみません。」
「貴方が謝る必要無いのよ、私が突拍子も無いこと言ったんだから。」
それじゃあと言って洗濯するだろう荷物を持って出ていこうとするお母様を呼び止める。
「重いでしょう、下まで持ちます。」
「…それじゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう。」
階段を降りる間、お互いに一言も発することはなかった。
お母様が僕にあんな事を頼むくらいだ、きっと本当に、春さんは結婚してから自分を押し殺すようになっていたのだろう。
それを僕が救ったというのは些か過言すぎる気もするが、しかし身内からすればそう映るのかもしれない。