歌詞は文字だけでは不完全であり、実際に歌われたときに歌詞は完全な姿を現す。さらに言えば作った人の思いが歌に込められなければ聴き手には届かない。
例えばsyrup16g「神のカルマ」にこんな一説一節がある。
「階段を昇っている 毎日少しずつ 落ちていく」
黙読してもピンとこない。CDを聴いてもピンとこない。しかしライブを観に行って、生演奏を浴びながら五十嵐隆の歌声を聴いたとき、ありありと情景が浮かんだ。
螺旋階段を昇っている人物。実は天地は逆さま。だから私の目にうつるその人物は階段を昇るたび、少しずつ下に落ちている。
そんな情景だ。
そういえば「かつて読書は音読だった」と呉智英の書物で読んだ記憶がある。小説や詩を黙読するのが当たり前になってしまった今、歌詞はそれらと一線を画す存在である。
もしかすると今後Audibleが広まれば、小説や詩の音読が復活するかもしれない。syrup16gのライブ経験によって私は、声による伝達は想像力を膨らます大きな契機になり得るという確信を持った。だから音読文化が広まることで、そんな体験を得る機会がもっと増えるだろうとわくわくしている。