子供の頃、田舎者と貧困を理由に近所やクラスの子に苛められた。
落ちたら死ぬかもしれないような川沿いの高い塀の上を歩かされた。カバンや教科書や上履きを捨てられたし、道端に放置されて乾いた犬の糞を食べさせられたりした。いま思うと、あれはもう犯罪ではないのか。
しかし、私はそれを誰にも言わなかった。親に言えば心配させるし、教師に言えば報復される。そうして不登校という手段で自分を守った。
ときどき、いじめに耐えかねて自ら命を絶つ子供(大人もだけど)の事件を耳にするといたたまれなくなる。
私は、自分が死のうとは考えたこともなかった。つらい目に遭った私が死ぬのは間尺に合わない。死ぬのは私ではない。死ぬのはいじめた奴らのほうだ。そう思って耐えた。復讐心が私を生かした。
実際には、復讐などそうたやすくできるものではない。そんなエネルギーがあるなら自分が幸せに生きることに費やすほうが優先である。だからしなかった。
私は、これがベストだったといまも思っている。
リコメが負荷となり、心置きなく本心を書けなくなったのでお金を払ってnoteのコメント欄を閉じた私に、クリエイターへのお問い合わせ欄を利用して、ヒステリックな中傷コメントを送り付けてきたその人を、私はいまもゆるしていない。閉じた扉の穴から毒矢を吹き入れる暗殺まがいのことだと感じている。子供だった私をいじめた奴ら同様、生涯ゆるすことはない。
報復しようとは思わない。そんなエネルギーを「奴」に使うのはもったいない。私の人生から排除したいだけ。
怒りは、私の生きるエネルギーなのだ。普段は、政治や行政や世の中の理不尽であることが多い。だが今回のようなことがあると、それは個人にも向けられる。だから私は、どんなに傷ついても落ち込んでも自ら死なずに済む。書くこともやめずに済む。
生き続け、書き続けることこそ、私の復讐なのかもしれない。
急にウンコがしたくなったとき、どこのトイレも空いていない、という呪いはかけている。