人を喜ばせることとの縁

kazuto5k
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他人を喜ばせることに縁がないなあと思う。

かつて芝居をやっていて、今はダンスというパフォーマンスをやっているうえに配信という形で不特定多数に向けてなにかを発信している人間が言うものではないかもしれないけど、俺は本当に人の心を動かすことと縁がない。

厳密に言うと、たとえ感動させたことがあってもその事実が俺に伝わることがほとんどないのだ。あんまり興味もないし、自分から求めてそういった言葉を引き出しても嬉しくないし。

だからこう、直近で「俺に伝わった感動」が片手に収まる数あっただけでも、俺にとってはえらい出来事だなあと思う。

思えば幼少の頃からそういう記憶がまったくない。一番を取ってくるような子供じゃなかったし、出来事を親に報告したりとかもしなかったし、俺を含めて古河一家は人を褒めるという習慣がなかった。だからといって家族関係が悪いというようなことはなく、単純にそういう個の集団だっただけなんだけど。

兎角、現代ほど人を褒めるとか人を求めるっていう習慣が当たり前ではなかった時代に深入りしない人間関係を形成し続けた俺にとって、人に何かを話すとか、人から何かを話されるとか、そういったことは日常から遠いところにあった。

だから他人からの感謝やら感動やらに触れる機会が少なかったわけなんだけど、こうして思い返してみると、血筋と環境が見事に人格形成に関わってるなあ。うちの男はみんな似たような思考してるし、両親どっちの血も強めに出てるなあってところがあるし。面白いね。こんな話するつもりじゃなかったんだけどいつも通り思考が回りすぎて脱線したね。ほら、俺16診断で論理学者って出たし、そういうことなんだよ。

まあなんだ、当初話したかったことに戻ると、えらい出来事が起きているのだ。直近で。

予想外のありがとうございますをわざわざ伝えてくれた人がいて、俺の行為に想像以上に喜んでくれてそれを伝えてくれた人がいて、俺が作ったものを予想だにしないべた褒めをしてくれた人がいて。

普段そんなものをもらわないもんだから、思ってもない正の感情が次々飛んでくることに驚きつつもずっと口元を緩めている。予想外のことを何度も何度も見つめては活力にしている。

何かを感じ取った時、それを本人に伝える熱量のある人はすごい。二十歳ぐらいの時に有名人に「がんばって」と言って握手してもらった時にものすごい熱を感じたことを思い出した。あの握手を超える接触を俺はまだ知らないなあ。

俺は自分からそういう感情を伝えているほうだと思うのだけれど、その行為がどれほど他人の熱になっているのかもう少し気にしてみてもいいのかもしれない。自分が今こんなになっているんだから、まあ、その五分の一ぐらいの効果はあるだろう。言って損はない。

今、とっても嬉しいんだよな。それを書きたかった。みんなありがとな。