インターネットと人間

keita
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現実世界で発生しているものごとにたいしての大変さとか将来への不安とか、生きていたら色々あるけど。

最近は X に流れてくる「おすすめ」のタイムラインがいちばんしんどいし、日常生活においてしっかり距離を取らないとやばいな…と思っている。

まあ、インターネットより現実が修羅場ってなくてマシやんという声がどっかから飛んできそうな気がするが。センシティブな情報ばっかり見に行ってしまう自分のパーソナリティーに問題があるやん、という声も聞こえてきそうな気がするが。これも被害妄想的やん、という自己意識との向き合い方も考えなければいけない気がするが。これはただの脳内遊戯的な妄想である。

もちろん、仕事を遂行することにおいては目標達成のために合理的に、完了に向かって全力を尽くす思考力は必要だとは思っている。ただ自分の感想ではあるが、いち個人に対して、プライベートでも考え方をロジカルに表現できない人間は、どんなプラットフォームでさえも「悪」、もしくは「劣性」と捉える風潮はあるように感じる。自分のこんな抽象的な発言も承認欲求が1ミリでも紛れ込んでいるなと感じたらインターネット上で発信することも億劫になった。

Twitter時代から感じていたことの一つとして、「140文字で表現できること」でその人について全否定できてしまう人が一定数いる、という点がある。人生はそう簡単に要約できないはずだと自分は思っているし、信じている。最近表現できる文字数だって増えたが、成人に対して、その人の20年とかを要約できているか? 無理やろ、と思う。けど「そう」と考えてしまう。なんというか、人は「要約された情報」で人を判断するように発展しちゃっているように感じる。その凝縮度合いをみるような。「面接」はそれに近いものを感じるのはただの個人的な感想(そこを考えてさまざまなアプローチをしている方々もおられることを前提としつつ)。でも仕事とかだと時間という縛りももちろんある。自己の表現が加速膨張している感じがしてなんかちょっとこえーと感じるところはある。

近頃のコミュニケーションはこの「要約」で人間と接することや、「要約」から学ぼうとすることが多いように思っている。これは本当にどうでもいい自分の感想だが、人生なんてものはしょーもないことがほとんどで、いろんなやらかしや失態の上に何をやったかどうか、どんな本当の意味での友達がいるか、そんな積み重ねの総体が人間を人間たらしめているんじゃないか? と思う。つまり要約をするために「積み重ねてきた文脈」が軽視されつつある、ということだ。

要約しか見ていなければ、要約しか出てこないのである。要約をするためにはそれ以外の膨大な無意味なこと、時間を浪費したことによる排出物が必要で、その排出された何か(価値となったのか、そうでなかったのか)を見つめて振り返る作業が必要なのだろうと思う。少しずつ世間一般的に言われるであろう老害的な思考が自分にも現れ始めたとは思っているが、そうやって思考は収束していくようになっているんだろうな……などと考えたりする。もちろん、人生まだまだ長いので老いたとか言っている場合ではないのだが。

要約や、短い情報だけでそれが全てと捉える人間ができるだけ減っていってほしいな……、という願いを持ちながら、キーボードを打つ。非常に難しいことだとは今の時勢を見ても感じている次第だ。

結論がないし要領も得ないが。書き散らしてみたが、ちょっとしばらくXは見ないようにしていこうと思います。メンタルのために。

@keita
大阪ではたらくWebエンジニア なんとなく思ったことを書きます