「深掘りする」という言葉がどうも苦手だが、理由がわからない。
ちょっとその考察をしてみたい。
仮説その1 形容詞と動詞がつながっているから?
形容詞「深く」と動詞「掘る」が繋がり「深掘り」という名詞になっている。そして「深掘りする」と動詞化している。それが嫌なのか?しかし他にも同じ構造の「長生きする」「早起きする」という言葉があって、それに嫌悪感はない。
仮説その2 音韻の問題か?(日本語)
「ふか / fuka」より「ぼり / bori」の語感が怪しい。この音に品の無さを感じる。なぜか?
例えばオノマトペの「ぼりぼり」は、硬いものを噛む音や、体を掻く音としてよく使われるが、いずれも高貴な人はしなそうな行為である。たくあんやお煎餅をぼりぼり噛みながら、頭をぼりぼり掻く王様。悪いことしてるわけじゃなくても、ちょっといやだ。「ぼり」から無意識に少し品のない行為を連想しているのだろうか。
「かいぼり」「外堀」「道頓堀」などの単語が喚起するイメージとも結びついていそうだ。お堀は敵の侵入を防ぐ目的の水溜まりであり、循環する水ではない。清潔なイメージからは離れるだろう。「ほり」なら水は濁ってなさそうなのに「ぼり」は濁っていそうだ。濁音だからな。
「ぼったくり」する、されることを「ぼる」「ぼられる」と省略する。語源は「暴利」らしい。これも品のよい言葉とは言えない。
仮説その3 音韻の問題か?(外国語)
では、同じような音で外国語だったらどうなのか。「ブーパ・キキ効果」は使用言語を問わず誰でも形体と言葉の印象を結び付けられる、という心理学用語だが「ボリ効果」はあるのだろうか。
たとえば「エリザベス」という人名が優雅さ、高貴さを連想したり「マイケル」に気安い印象を感じたり、というのがあるだろう。「ボリス」はどうだろうか。その文化で育った人しか本当はわからないが、「ボリス・ジョンソン」「ボリス・エリツィン」の「ボリス」には角張った、堅牢そうな印象を感じる。名付けるときに「丈夫に育ってほしい」と思われてそうだ。しかし音ではなく、本人の体格や性格を連想しているだけかもしれない。その印象が本国の人にとって確かだったとしても、この「ボリ」は日本語と比べて、品がないとまでは言えなそうだ。
さらに「ボリビアBolivia」「ボァリングBoring」「ボリグラフォbolígrafo(スペイン語でボールペン)」からも品がない、という印象は受けないだろう。
「ボリ」の持つ印象は文化圏で異なり、人類共通のものは見出せなそうだ。
仮説その4 使い方の問題か?
研究者で「私は、蝶の生態を深掘りしています」という人がいたら何となく信用に欠けるのではないか。「深掘り」が示す意味は深く掘る、つまり考察/調査/思索を深く行うということだが、本当にその行為をしている人は「深掘りしている」とは表現しないような気がする。つまり「深掘り」はその字面に反して、浅そうな印象を与えてしまうのではないか。
仮説その5 新語・流行語だからか?
「深掘りする」はいつ、どのように発生したのか知らないが、新しい言葉である。日本人全員が使うとは思えず、使う人の属性はある程度限られそうだ。使う人たちは誰なのか、根拠はないがなんとなくビジネス用語として多用されていそうな感じがする。「ジョインする」「アグリーする」のような言葉と同類の浅薄さをまとってしまうのかもしれない。
以上のように、色々考えてはみたが明確にはわからない。2,4,5あたりのことを統合したイメージを瞬間的に受け取っていると解釈しておきたい。
どうしても「深掘り」したくなったら「掘り下げる」くらいにしておこうと思う。