事実は二の次でいいのかもしれない

Kenji Naito
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ちょっと前まで、いかに中立的な立場でいられるかに固執していた。それが正しいことだと思い、カッコいいことだと思っていた。

色々な年齢の人たち、性別、人種の人たちと関わることでこの考え方に変化があった。

その人が世界をどう見ているのか?

人間が認知できる事象はほんの一部でしかなく、実際はほとんどを認知できていない。そして、もし認知していたとしても過去の経験や環境によって様々な心理的バイアスがかかる。とってもではないが、「正しいものの見方」なんていうものは、解脱してやっと辿り着ける世界。

ともすると、わたしもあのひとも「じぶんのおもいこみ」の中で生きていると考えた方が現状と合っていそうだ。

私たちは思い込みの中で生きている。何をやっても上手くいかない。私はなにをやっても上手くいく。自分はツイている。世界は邪悪だ。世界は美しい。ありとあらゆるものはその人が見たいようにしか見えないのではないのだろうか。

もしそうだとしたら、この世界はそれぞれの思い込みでできているのかもしれない。良い、悪い、人それぞれ。あの人、あの家族、あの地域、あの国、あの宗教にとっては正しくても、別の人、別の家族、別の地域、別の国にとっては正しくない。みなそれぞれの思い込みで生きている。

つまり、自分がいくら正しい、事実だ、と声高に叫んだところで、その人がそうだ、と思い込んでいればそれはその人の中では事実なのだ。

なので、何かを変えようとしたりとか、気付いてもらおうとすることは難しい。そもそもお互いが別のことを思い込んでいるのだから。思い込んでいる同士が説得しようとしても、なかなかどうして上手くは行かないだろう。なぜか?相手が間違った思い込みをしていると思い込んでいるのだから。

楽しいと思い込む

事実を見れないのだとしたら、なるべく楽しいと思い込んで生きて過ごした方がいいのかもしれない。どうせ思い込むのなら、なるべく楽しい方に。