学習計画中心主義から人格中心主義への変化について

Kenji Naito
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学校の学習とは、各学年に対して決まった指導内容が存在し、その指導を正確に行うために計画がある。学生は、正確に指導から理解をするために、指導に対して人が適用してきた。

つまり、「指導 > 人格」のバランスで行われてきた。

この背景には、人類が増加傾向にあり、大規模な情報量を一括で管理する必要があったこと、また、当時は重工業、工場での労働力、もしくは国家を維持、拡大するための軍事力を生産する機能としても必要であった。

しかし、近代においては、AIからはじまり、あらゆる産業の機械化と効率化により、旧来の学習指導中心において生産される平面的な人物は、社会の中での立場がなくなっていく状況にある。

近代において必要な人物とは、独自性を持ち、かつ、状況を作り出せる想像力のある人物である。決められたもの、決められた内容を粛々とやるように生産させられた人物は、社会的に必要とされない傾向にある。

つまり、旧来の学習計画中心主義における平面的な人物の生産は、本人、社会の双方にとって良い状態とは言えない。

では、どのような状態にすることが望まれるのか?

学習計画中心主義から人格中心主義へ

学年における各種学習計画は、あくまで参考程度とし、学生ひとりひとりの特徴、人格に合わせて、学習が行われる人格中心主義へと変わることである。

個人の特徴、平面的な人物から立体的な人物になり得るためには、おおよそ、自己決定の実行量とその質によるものが多い。また、人格と他の人格間による相互作用を学習することも重要になる。各個人の人格の形成と、他者の人格の尊重の学習である。なぜならば、人格の立体化とは、立体化された人格のそれぞれを認め、尊重し、お互いがより良い関係性を持てるようにすることが、近代社会において重要だからである。

結論として、旧来の学習計画中心主義における、年間カリキュラム、1週間時間割、中間テストなどを通じて再生される平面的な人格は、当人においても、また、社会においても問題となる。

よって、学習計画中心主義から、それぞれの人格それぞれに合った、人格を立体化するための自己決定の量による学習と、人格と人格のそれぞれを尊重できる関係性を学ぶことが、個人と社会に対する解決策なのである。

よって、近代の学校とは、教師の役割はティーチングからコーチングへ、指導、指示からファシリテーションへ代わり、新しく、実社会における各種プロフェッショナルが、各人格、およびプロジェクト、チームに対して機会の提供や、技能の習得を与えることになる。