記憶を消してくれる人がいる、と噂で聞いた。厳密に言うと人が消してくれるわけではなく、そういうことができる特殊な機械を使うそうなのだが、詳しいことはわからない。
その機械を使うと、自分の中にある消したい記憶をピンポイントで消してくれて、二度と思い出さないようにしてくれるのだそうだ。そんな都合の良いものがあるのかと思ったりもしたが、そんな都合の良いものにすがりたい自分もいる。
そんな噂が本当なのか、とにかく調べた。余っている時間を全てそのために使った。あり得ないとどこかで思っていたが、溺れているときに微小な浮力しかない藁でも掴んでしまうような、そんな心境で。
噂程度の情報から調べ始めてみたが、徐々にそれが本当であるという具体的な情報が出てきた。その場所、人物の名前、どのような機械なのか、様々な情報が実在することを示していた。
それはどうやら頭に被るような機械で、そこから何らかの特殊な電気信号が出てみたいな、ちょっと想像もつかないような装置だとわかった。理解不能な数式が並んでいる情報も見かけた。よくわからなかったが、もはやそんなことどうでもよかった。
なんとか目的の人物と連絡を取り、会うことが決まった。それが今日この日だ。
そこは遠かった。自宅から電車とバスを使って五時間はかかった。山奥にある小さな一軒家。周囲二百メートル以内に他の家はなく不便そうな立地。ただ、その条件もまた、これから起こることへの期待を増大させていた。
これから僕の物語がリスタートするのだろう。
それが楽しみで仕方ない。
ようやくなのだ、と。
※
「連絡をくれた方だよね」
「はい」
「とりあえず上がって」
「すみません。お邪魔します」
「それにしても、よくここがわかったね」
「まぁ時間はありましたから」
「それで辿り着くようなものじゃないんだけどなぁ。もうちょっといろいろ考えないとなぁ」
「もっとわかりやすくしてほしいくらいですよ」
「色んな人に来てほしくなくてさ。大変だし」
「素晴らしいことだと思うんですが」
「まぁここに座ってよ。まずは君のことを知りたいからさ。話でもしよう」
「それはいいんですけど、本当に記憶を消せるんですか?」
「どういう情報を持って来てるのか知らないけど、記憶は消せないよ」
「え」
「そもそも記憶なんてものは大して重要なものじゃないんだ。要はそれを思い出すかどうか、それが重要なんだ。意味わかる?」
「いえ、ちょっと……」
「記憶はね、消えないものなんだよ。例えば、パソコンとハードディスクがあるとしよう。そこにデータが記録されていくよね。それでだ、そのパソコンが壊れてしまったらそのデータはどうなる?」
「見れなくなります」
「そう。でもね、ハードディスク自体は残っている。つまり記録自体が消えたわけではなくて、記録を見ることができなくなっただけなんだよ」
「なるほど。つまり、僕の記憶を消すわけではなく、それを閲覧できない状態にする、ということですか?」
「まぁ、違うんだけどね」
「はぁ」
「これは記憶と思い出の違いの説明だよ」
「で、結局僕をどうしてくれるんですか?」
「君は結論を急ぐタイプなの?」
「時間がないので」
「時間なんてどうでもいいじゃない」
「いえ、そんなことはないです」
「君がそう思うならそれでいいけどさ」
「僕のどういう話が聞きたいんですか?」
「そうだな、じゃあ嫌な思い出って何?」
「あなたも結論を急ぐタイプなんですね。要するに、その記憶をなくしたいからこそ僕はここに来たんです」
「急いでるつもりはないんだけど、まぁいいや。で?」
「学生の頃、大好きな女性がいたんです。で、僕はその人とどうしても一緒になりたかったから告白したんです。そしたら実は両想いだったことがわかって、嬉しくなっちゃったんです。それから色んなことを二人でしてきました。色んな思い出があります」
「この話、もしかして長い?」
「いえ、聞かれたので」
「ごめんごめん。結論は何?」
「その女性が死んでしまったんです。僕とのデート中に交通事故で」
「ちょっと当てていい? つまりだ、その女性に想いを伝えなければそもそもデートもしなかったし交通事故にもあわなかったのではないか。これでしょ」
「いや、どうでしょう。そう思ってたこともありましたけど」
「じゃあ、どうしてほしくてきたの?」
「今でも彼女のことを忘れられません。ずっと胸が苦しいんです。だから忘れたいんです、彼女の存在を」
「そっか。でもね、僕にはそんな大層なことできないんだ、悪いけど」
「じゃあ何ができるんですか? 僕はこのために人生を捧げてきたんです」
「まぁ、いい年だしね。年齢は聞かないけど、先長くないんでしょ」
「まぁ、そうですね。医者からはあと半年だと言われてます」
「もっと生きていたかった?」
「それはどうでしょうか。こんな人生なら終わってしまって構わないです」
「そうか。わかった。君の期待に添えるかわからないけど、力になるよ」
「いいんですか?」
「ただ本当に君の期待に添えるかはわからないからね。それでもいいなら」
「今の人生に期待してないので」
「じゃあこれを被って」
「重いですね」
「それはごめん。とりあえず想いを伝えなきゃよかったと後悔してる、そう仮定してみて」
「なんでですか?」
「交際して色んな思い出がなかったら、忘れたくなるほど苦しまないでしょ」
「そうかもしれません」
「交際したことをなかったことにしてみたらどうだろう。ある程度君の希望に答えられてるかな?」
「なるほど、そうですね」
「それならその時の光景をなるべく思い出してみて。空気感とか彼女の仕草とか。もう何も喋らなくていいからそのことに集中して。目をつぶってそのことだけ考えて。そう、上手だ。そのまま、そのまま」
※
ふと、頭の重りが取れたような、そんな感覚がした。目を開けると目の前に大好きな彼女がいた。
目の前にいる彼女は緊張しているのか僕と目を合わせようとせず、ただうつむいて自分の手を握っている。
きれいなんだよな、と思った。
自分の理想と重ね合わせても、全く誤差がないほど究極に。
彼女が上目遣いで僕の目を見た。その瞬間、僕はしなければならないことを思い出した。
「お前さ、俺のこと好きでしょ」
僕から目をそらし、再度うつむく。
「なんかさ、やめてほしいんだよね、俺のことそういう目で見るの。迷惑だからさ。自分のこと可愛いとか思ってる? そういう女、嫌いだから」
うつむく彼女の瞳から大粒の涙が落下して地面を濡らす。広がっていく涙のシミをずっと見ていた。
気づくと彼女はいなかった。
なんであんなことを言ってしまったのか。
彼女はその数年後、突然現れたストーカーに何度も包丁で刺されて死んだ。
あのとき、あんなことを言わなければなにか変わったかもしれない。そのことをずっと後悔している。