人々は笑顔になっていた。笑いで溢れるこの世界。世界は優しさで満ち、楽しだけで形成されていく。誰もそのことに疑問も持たないくらい、当たり前なことだと認識すらされないくらい、ごくごく自然な現象として……。
世界の首脳陣が秘密裏に集合し、話し合った。
世界が良くならないのは人類全員が負の感情を持つからなのではないか、と。現代社会において負の感情そのものが不要である。負の感情こそが争いを巻き起こす原因そのものではないだろうか。その議題に対して反対するものはいなかった。戦争、差別、イジメ。これらの社会問題の発端は、全て人に負の感情によるものであるという答えに全員が同意した。
その集会に一人の学者が招かれた。
「負の感情を消し、常に人々が笑っていられたら、そんなに素晴らしい世界はないです。そんな理想的な未来のために我々は研究を続けてきました」
その学者によれば、負の感情を抱く原因は、脳のある部分の活発化によるものであるとのこと。脳は人間の身体の一部であり必要なものではあるはずだが、それを失うデメリットよりメリットの方が大きいと学者は結論付けた。
「負の感情をいだかなくなるということは闘争心が生まれなくなることにもなります。それは向上心低下にも結びつきますが、ではそれと現代の問題を比べたときに、どちらが重要でしょうか? 無意味な宗教戦争、上位に立ちたいというマウンティング合戦。それらは社会にどういった悪影響を及ぼしましたか?」
一部は反論しようと口を開きかけたが、すぐにその口をつぐんだ。状況的に不利になるとすぐにわかったからだ。
「人を蔑む行為の全ては、この負の感情から生まれます。その感情から、今こそ開放されるべきではないでしょうか?」
しばしの沈黙。言いたいことがあっても何も言えない停滞感。
「我々は辿り着きました。その理想的な社会を作る術に」
学者が出したのは手のひらに収まるサイズのビンだった。その中は透明の液体で満ちている。
「これを静脈注射することで、一部の脳の機能が著しく低下します。それによって人々から負の感情を消し去ることができるのです」
静まり返った会場にパラパラと拍手が起きる。それをきっかけに、そこにいた全ての人間が立ち上がり学者の功績を称える喝采がその場を支配した。
「これを注射することを全国民に義務化します。これを注射することによって、遺伝子も操作されます。つまり、この注射をしたものから生まれる子供もまた、同じような脳の機能を持って生まれてくるのです。未来永劫、人類は負の感情に勝利するのです」
しかし、全人類に注射するなんて可能なのか。そんな疑問が生まれる。学者は続ける。
「人類のために、一度感染率と致死率の高いウイルスを世界中に広めましょう。それによって犠牲も生まれますが仕方ない。人類のためです。そしてそのウイルスの対抗薬として、この薬を注射させるのです。もちろん、蔓延させたウイルスのワクチンも一緒に。ただ、こういった薬品を体に入れたくないという一定の層がいますね。そういったイレギュラーに対抗するために、ウイルスを感染率と致死率の高いものにするんです。どんどん亡くなっていく人を見て思想を改めるか、またはそのまま死んでいくか、どちらかにしかならないようにするために」
学者は準備してきたのだろう。自分の理想的な世界を作るためにはここにいる人間を納得させなければならない。
「人類のために、この話をぜひ実現させてくれませんか」
結果、満場一致で認められ、その計画は進められることとなった。
ウイルスを拡散する役割りは、人口が多くある程度の経済力もある某国家に託された。一度は世界中から避難されるかもしれないが、英雄国家と讃えられるのだろう。
それから半年後、原因不明のウイルスが世界中で蔓延し始める。
学者の予測通り、人々は死んでいった。結果的に人口は一割以上減少した。
そのタイミングで例の薬の投与を開始した。人々が薬品を体内にいれるリスクを忘れるくらい緊迫した状況で。
すると、そんな状況下にも関わらずで笑顔になる人々が増えていった。それはウイルスの感染リスクがなくなった安堵によるものだと、勝手に彼らは思っている。
程なくして、笑顔の人間で世界は埋め尽くされた。他人に対して負の感情を持たなくなり、それによって幸せに満ちた世界が作り上げられた。
「良かったなぁ」
学者は笑顔でそう言うと、五二歳という若さで死んでいった。結核だった。
結核というのは過去致死率の高いを病気であったが、現代では科学が進歩しそれを克服していた。
しかし学者は結核に蝕まれていった。治療する医者がいなくなってしまったからだ。
例の薬の投与は、まずそれを投与する医者など医療従事者から優先された。そのあとにウイルス感染時に死亡リスクが高いとされている高齢者から順番に、という段取りを組んでいた。
しかし、医療従事者の投与が終わって高齢者から順番に投与を開始し始めて間もなく、すべての医療従事者がその行為を止めてしまった。
ウイルスと戦うことに意味を見出だせなくなってしまったのだ。
当然社会は混乱した。暴徒化した人々は誰もいない病院に襲撃を仕掛け、例の薬を求めた。
こうして人口は、全盛期の一割未満になった。
生きている人々は笑顔に溢れ、幸せな生活をしている。
国家からも見捨てられたある島の民族が存在する。話し合いに行こうと島に向かうと問答無用で攻撃を仕掛けてくるような、そんな野蛮で排他的な民族。
今もなお、彼らだけは何も変わらず生活をし、来るはずもない来訪者に敵意を向け続けている。