「好きになるまで待って」
彼女に初めてそう言われたときのことをよく覚えている。別れの季節と言われている三月末のこと。彼女は僕の一つ年上の同じ高校の先輩で、その日は卒業式だった。
式典も終わり下校時間になったので急いで下駄箱から靴を取り出し飛び出すと、先に最後のホームルームを終えていた卒業生達が、名残惜しいのか校門前に集まって写真を撮ったり話をしたりしていた。その中に彼女の姿もあった。
彼女は友達と楽しそうに喋っていた。その輪に割り込んで彼女に話しかけるのはちょっと気が引けた。何となくタイミングを見計らって、少し離れたところで黙って観察してみた。
そんな僕の存在に気づいた彼女の友達は、僕の気持ちを察したのかこちらを見て手招きした。その手の動きに引き寄せられるように、僕は彼女に近づいていく。
「話があるんじゃない? そうでしょ?」
そう言うと、彼女一人残して友達はその場を離れた。
「後で話聞くからね」
そう一言残すと、校門を抜けていなくなった。
肩くらいまで綺麗に伸びたストレートヘアー。小さな顔にバランスよく設置された大きな瞳が、今僕のことを見つめている。周りの声が聞こえなくなり、今まで楽しそうに話していた卒業生が僕達二人に注目しているのが感覚でわかった。
「話があるの?」
いつもみたいに、何も変わらないトーンで僕に聞いてきた。
「わかってますよね?」
恥ずかしくて偉そうに答えてしまった。
「どうかな」
風が吹く。彼女の髪の毛が瞳を隠す。それがうっとおしかったのか、髪を耳にかけた。
「あの、ですね。ちょっと」
伝えようと何度も考えていた言葉が出てこない。極度に緊張していた。
「わかるよ。でもね今はちょっと違うかな。卒業するからでしょ。私がいなくなるから、もし残念な返事だったとしても、そうそう会うこともないし、ダメージが少ないと思ったんでしょ」
そんなことはない。違う。いなくなるから、会えなくなる前に伝えたかったんだ。でも、その言葉が直ぐに口から出てこない。
「私ね、君のことを好きではないの。恋愛対象ではない、という意味での好きではない、だけど。だからさ、待ってもらえる?」
「何を待つんですか?」
「好きになるのを。君が私に対してそう思ってるのは知ってたし、まぁ可愛い後輩だからなるべく期待に答えたかったんだけどさ、好きではないんだよね、現状。だから、私が君のことを好きになるまで待ってよ」
これは、どっちなんだろうか。どう捉えたらいいのだろうか。混乱している僕の脳では解析できない。
「とにかく、好きになるまで待って。じゃあね」
そう言うと、彼女は僕に背を向け、先程去っていった友達を追って駆け出した。そんな彼女の背中をただ見てることしか僕にはできなかった。
その後のことはあまり覚えていない。急に色んな人が集まってきて慰められたような気もするし、ジュースを奢ってもらったような記憶もある。ただ、僕はまだ諦めてはいけないんだとずっと思っていたと思う。
その後、僕は彼女が進んだ進学先と同じ大学を受験した。無事合格し進学してすぐに僕は彼女を探した。初めてキャンパスで見かけたとき、一年振りに見た彼女があまりにも変化していなかったから、あの卒業式のことをふと思い出してしまった。彼女は僕が近づいてくるのに気づいて手を振ってくれた。
「受かったんだ、よかったね」
「ずっと待ってました。でも、その感じだとまだですよね」
「まぁ、そうだね。もう少し待てる?」
「僕、いつまでも待つって決めたので。忘れられないようにずっとそばにいますから」
「なにそれ? ストーカーみたい」
「それは受け捉え方次第かと」
「そこまでわかってるんだ。だったらもう少し待てるよね」
そう言って彼女は去っていった。
色んな思い出がある。同じサークルに入ったこと、合宿で行った山で二人で遭難して二日間二人きりで生き残ったこと、彼女が卒業と同時に海外に行くと言うから大学を辞めてついて行ったこと。
その度に、彼女はもう少し待ってと僕に言った。僕はずっと待っていた。
それからいろんなことがあった。彼女が行き先の海外で交通事故に巻き込まれ処置が遅れた結果下半身不随になって歩けなくなったこと、一緒に帰国してショックで立ち直れない彼女に毎日寄り添ってあげたこと、気持ちの整理がついた彼女がまた昔のような笑顔をしてくれるようになったこと、僕にガンが見つかって人生がもう残り少なくなったこと。
「二ヶ月だっけ、残り」
「医者が言うには、そうですね」
「あーあ、なんでかな、もう」
「なんで先輩がそんな事言うんですか?」
「私の努力を無駄にする気?」
「なるほど、そういうことですか」
「待たせるのも悪いかなって思っていたんだよ、最近。悪いからって別に好きになるわけじゃないんだけどさ」
「そりゃそうです」
「でも、私より先に死ぬのはないわ。待っててって言ってたよね」
「それは、すみません」
「謝っても状況変わらないでしょ」
彼女は窓の外を眺めた。病室の窓から見える景色といえば、ただそこに植えられている木だけだ。遠くに街並みが見えるのだろうが、寝たきりの僕からは見えない。
「あのさ、待たせ過ぎたというか、まぁ何ていうか」
「先輩、いいんですよ。好きになるまで待ちますから。待つって言いましたし」
「だったら待ってみなよ。待てるもんなら」
「はい、いつまでも待ちますから」
その話をした翌日、僕は死んだ。
僕が死んだことを医者が伝えると、彼女は死んでいる僕の胸を殴った。嘘つき。そう何度も叫びながら。
お通夜でも告別式でも火葬されても、彼女は僕のために涙を流さなかった。
あんなにずっと一緒にいてくれたから寂しいでしょ、と車椅子を押してくれている近所のおばあさんに慰められていた。別に好きではなかったから、と彼女は答えた。強がっちゃって私だってずっとあなたのこと見てたんだからわかるよ、とおばあさんは言った。
ずっとっていつから?
高校の時から。
彼女のやせ細った脚と顔に刻まれたシワを見て、まだ待ってみようかなと思った。