私は昔からものすごく騙されやすい人間で、それはどのくらいなのかというと、中学校の時にテニスの試合で相手選手から「もうちょっとこっちに立ってもらえませんか?」と言われて、大人しくそれに従って立ち位置を変えたところ、空いたスペースにサーブを打ち込まれて失点したくらいである。度々、家族や友人からケンシロウは気をつけたほうがいいと言われてきた。自分でもよくわかっている。でもけっこう難しい。
今日はツイッターに流れきた獄中記をよくわからないまま面白半分で目にしてしまって、一度は書き手の心情吐露に同情してしまった。しかししばらく経って何となく違和感が残っていることに気がつき、その手記を検証してみたところ、極端に砕けた文体でありながら同時にかなり整った構成であること(まずそのギャップに恐怖を感じた)、それからこの手記の書き手がこれからどうしたいのか、この先どこに向かうつもりでいるのかが書かれていないことや、結末で何某かに対しての憎悪を煽っているが、書き手が言うところの「あいつら」という存在が具体的に誰や何のことなのかが明示されていないこと(たぶん読者が各々で勝手に想像して補完して納得するような危ない仕掛けなのだと思う)、そしてこの手記が憎悪の感情を手掛かりにしてシンパを増やすことを目的として書かれているのではないかということ、そもそも書き手が一人だけなのかどうかさえ疑わしいことなどに思い当たり、そこでようやく恐ろしさに気づいた。今も少し動揺している。
こういうものを注釈なしに公の場に出しては駄目なんじゃないかと思う。「文才がある」とか「他の文章も読んでみたい」「この才能を上手く使えれば」とかいうコメントを見かけたけれど、それはもう取り込まれてしまっているのではないか。あれはそう言わせることを目的として書かれた文章だと思う。どこからも断絶された出口のない場所に読者を引きずり込むのはカルトの手口と同じだ。関わっても碌なことにはならないと思う。それとも私が考えすぎなだけだろうか。とりあえず通報してブロックした。しかし、怖かった…。
それが開かれた方向に進んでいるかどうかに注意して、物事をよく見るようにいつも心がけたい。よく見ること。
今日は久しぶりに朝から晴れていたので布団を干した。天気は良かったが空気は冷たかった。そしてまた明日から雨が続くらしい。
執筆はできていない。物語の仕組みについて書いてある本を読んで過ごした。これから『ダンジョン飯』の最新話を見て、その後プロットをやる。そういえば来月に昨年応募した文学賞の一次選考の結果が文芸誌上で発表される。たしか全2030篇の応募作品の中から100作くらいが一次選考を通過したとあった。二次はその半分だったかと思う。私は自作が一次選考を通過したとさえ思えないが、それでもやっぱり結果は気になる(正直、あわよくば通っていたらと思っているが、それは志が低くないかとも思う)。
5月31日から8月上旬までお弁当を作ることになった。朝5時に起きるように生活習慣を今から整えておきたい。今この文章を書いているのは午前2時過ぎなのだが。