妻が出かけるので、子と留守番の日。以前買った積み木を頃合いだろうということで開封したので、一緒に遊ぶ。やって見せたら一個積むぐらいのことはするけど、基本的には崩す専門。うれしそうにやる。
子供は、秩序を作ることよりも壊すことに喜びを感じるようである。壊すことのほうが、現状の認知能力において、世界への働きかけの自己効力感があるのだろう。秩序を作るのはより「高度な」ことだろう。
秩序を作り上げるというのは大変なことである。壊すのとは違って、一定のスキルを要するからである。壊すことの即時的な快楽より時間もかかる。だから、まずは壊すこと、散らかすことから始まる。
だから、子供の教育には簡単だが一定の手続きを踏むことで何らかの成果が実現するおもちゃがまず使われる。そこから進んで、片付けを教え込むことで、より進んだ秩序への傾向を導入することになる。
何かを壊すことが単なる無秩序かというともちろんそうではなくて、壊れるということが必ず起こるという法則が、つまりそこにもまた秩序があることが見出されてはいるはずで、原初的な発見なのだろう。
いったん作り上げられた秩序は、それを再現する手続きとともにいつの間にか自動化され、意識することが難しくなる。そうすると、世界へ働きかけられるという自己効力感が薄れてくる。
だから、たまには作り上げた秩序を意識的に対象化して壊すということをする必要がある。そのことで、秩序はもとからあったことではなく、作為されたものだし、作り直せることを実感できる。
自分が、何かを作り上げることよりもむしろ、次々に手当たり次第に取り組みを始めてしまうのは壊すことのもたらす原初的な快楽に中毒しているからで、非常に子供じみたことだと思える。
積み木を少し積んでみはするものの、すぐに突き崩してしまって、また次のおもちゃへと関心が移っていく。まさに子の行動そのものである。一歳児の行動様式をいまも生きているのだろう。
時間をかけて秩序を組み上げるようなことをしたいと思ってきたが、どうやらそういうのは自分には難易度が高いようである。そのかわりに、ひたすら壊し続けることは容易にできる。
それならば、無理に矯正するよりも、一歳時のような注意力の不足と関心事の移り変わりのとりとめのなさを、むしろ自分の特性と認めて、そのことでもってなにかを結果的に作り上げること。
まあ、そういうのは単にいいわけにすぎないのだけど、かといってなかなか変えがたいことではあるのだから、そうした性質からことを始めていくほかない。そんなことを考えていた。