2023年11月18日

kentaro
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知り合いが赤ちゃん向けの英語教育本を出してイベントをするというので、朝から行ってきた。

乳幼児の言語獲得については学んできたので、知識として知らないことはなかったのだが、子供に英語を身に着けさせるならそういうことはしないとならないだろうなあという気持ちにはなった。

ただ、なんにせよ親の継続の方に課題があるのだから、自分がそれをやりきれるかどうかだよなあと思う。英語に限らず、語学の学習自体は自分自身継続してやっていることではあるから、そのモチベーションにからめられるしくみを作れればいいのかも。

まあでも、それ以前にだいじなことはたくさんあるだろうとも思うけど。ただ、別に二律背反ではないので、どれもやればいいことではある。

しかし、どうせやるなら英語よりもフランス語なりなんなり、自分が興味あるのをやりたいという気持ちもある。

昨日飲んでるときにディズニーランドの話になって、いったことがないし興味もないから自分から積極的につれてくことはなかろう、いきたいと言うならいくけどという話をしたら、親の限界によって子を限界づけることではないかというようなことをいわれた。その通りである。

それについては、たとえば親が英語がろくにできないことだってそういうことになるし、もっというと、親に教養がなければ、たとえば子が優れた文芸や能楽とかに触れる機会を作れないみたいなことはある。むしろ、自分としては教養のことのほうが重大な問題だと思う。

しかし、親だって完璧ではありえないのだから、なにかしら限界があるわけで、しかたない面はある。そんなことを気にしだしたら生きてはいけない。

そんなことを話していたのだが、最近のディズニーランドは、ある種のメディアアートとしてとても面白いものであるという話を、具体例とともにされた。それはとても興味深いし、いってみたいという気持ちになった。

限界があるのは当然だから、その限界に気づかずに単に世の中の雰囲気に流されることのほうが良くないのではないかと思いもするし、一方でその限界に居直って視野を広げようとしないなら、それもよくないことだろう。

というわけで、とりあえずディズニーランドはそのうちいってみようという気持ちになった。