2024年3月3日

kentaro
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僕が使っているバスタオルがぼろぼろになっていたのを、妻が買い替えてくれた。そういうのをぜんぜん気にしないので、ぼろぼろになっているのは知っていたが、そのまま使い続けていたのであった。

思えば、靴下などもほとんど穴が空いている。別に穴が空いていたところで不都合があるわけでもないし、そのままにしている。靴を脱ぐ機会(マッサージとか)がありそうなときは、空いてないのをはくけど。

物持ちがいいかというとそんなことはなく、衝動買いしたり失くしたり、あまり物をだいじにしているわけでもない。単に機能が満たせればいいものについては、機能が損なわれてなければいいというだけである。

ひとそれぞれに、何が気になるかに差異がある。上記のようなことは気にならないが、たとえばパソコンの画面やキーボードが机の真ん中にそろってないと気にかかるとか、そういう秩序への嗜好がある。

神経質なのかというと、別にそんなことはないと思う。神経質というのは全般的に現れるだろうけど、自分の場合は論理的・合理的秩序が維持されているべきだと考える領域においてしか現れない。

「頭の回転が速い」みたいなことがいわれる。そういうのを売りにしている人々もいる(「論破」みたいな)。いいこともあるだろうけど、自分はそういう風にはならないようにしたいと思う。どういうことだろうか。

端的には、考えるべきことを考えていないから速いように見えるだけだからである。そりゃ、他の人が気にすることを気にしないで済ませられるわけだから、答えを出すのが速いに決まっている。

もちろん、そうであるべき場面もある。たとえば、仕事においてはできる限りシンプルかつ迅速に意思決定をするのがよい場面が多いだろうから、そういう「頭の回転の速さ」が有用であることは多い。

しかし、それをあらゆる場面に適用しようとすると、単なる無神経に堕してしまうだろう。人にはそれぞれ気にかかることがあるのにも関わらず、それを無視する性急さを自覚できないからである。

そういうと、自分からすると意味を感じられないことに気を取られている人に思考を引っ張られるような気がするのだが、そういうのは人間関係の中で、きっと個別にお互い様が積み重なっている。

僕は、機能性のものが機能を残っていない限り気にしないから、生活上の時間をそういうところに取られる機会が少ない。そのため、他のことに時間を使うことができて、結果的に速くできることがあるだろう。

一方で、タオルとか靴下ならともかく、自分が気にかけないでいること自体が他の人の気にかかるみたいなことは普通にあるはずで、そういうことに無自覚であるとしたら、それは単に良くないことである。

もちろん、だからといってなんでも気にかけるべきだとは思わないし、わりとそういう議論はするのだが(いつも負けるけど)、ともあれそういう構造があるということには自覚的でいたいと思っている。