「美容や身だしなみは、自分自身を奮い立たせたり、肯定して生きやすくなるようにするためにやっている」というスタンスで、私は大枚をはたき痛みに耐えながらレーザー脱毛してみたり、美容医療でシミやほうれい線を殺したり、毎日顔や髪、全身に多種多様な効能を謳う基礎化粧品を塗りたくり、外出の際は2〜30分かけて化粧を施し、痩せたいからと摂取カロリーを記録・制限をしたりといった各種行為を行なっている。
ではなぜ、自分を肯定するためにそれらの美容行為の結果が必要なのか?
自分を好きになるために、体毛を薄くしたり、目をぱっちり見せたり、痩せていたりしないといけないのはなぜ?
その理想像はどこから来たもの?
すっぴんで出歩いていると、化粧しているときより防御力攻撃力が落ちているような気分になるのはなぜ?
本書では、それらは社会的な要求への適応によるもの、そしてその社会というのは残念ながら男性中心の形をとっている、というようなことを述べている。
個人、というか私自身の自由意志だと思っていたものはべつに大した自由でもなかったのだ。
健康を害しながらも美容行為を行ってきた女性たちの凄惨な歴史を読みながら思い浮かんだのが、SNS上で見てきた「美容界隈」や「整形界隈」と呼ばれるアカウントたちのことだった。
美容界隈のインフルエンサーたちは、次々と「やってよかった」美容方法やおすすめの美容アイテムを紹介する。
その美容方法やアイテムの中には、明らかに安全性や効果に疑問がある過激なものが混じっており、度々議論が紛糾する。
本来美容とは異なる目的の処方薬について美容効果があると紹介した投稿が、「治療すべき病状がある必要な人に届かなくなるし危ないからやめた方がいい」と炎上しているのを見たことがある。
摂食障害スレスレに痩せた女性の身体の写真を貼り、「短期間でXXkg痩せた!」と、食欲をなくすことを謳うダイエット漢方のアフィリエイトに繋ぐ投稿もよく見かける。
痩せすぎのモデル起用の制限って夢だったっけ?「ボディポジティブ」ってなに?となるほど、この界隈には痩せを賛美するイメージに溢れている。
整形界隈のアカウントは、自らの理想の顔や身体に近づくためにさまざまな施術を行い、その情報を発信・交換している。
美容整形施術にはかなりのお金がかかるためか、または容姿が商売の要となるからか、夜職に従事していることが伺いとれるアカウントも多い。
自己肯定感の低さや、自らの容姿に対する強いコンプレックスを吐露する投稿を見かけることがある。
美容インフルエンサーの過激な投稿に感化されてしまう人や、整形界隈のアカウントの「美への執着心」「現状の自分の容姿への否定感 ≒ 自己否定感」は、私にとっても全然他人事ではない。共感できる部分がかなりある。
自分の抱える苦しみの原因を社会に求める人は自己責任論者にバカにされがちだと思う。
でも、社会の構造が個人に与える影響をバカにしていると問題の根本解決は永遠に無理だと思う。
自分の抱える苦しみや違和感を軽くするための行動が、結局根本の原因である社会構造への適応であり、それを強化するようになっていることが往々にしてある皮肉さ、えぐすぎる。私もバッチリ加担している。
本書にはトランスジェンダーについての記述もある。MtFのトランスジェンダーについてはかなり批判的な内容だった。
これ当事者が読んだらどう感じるんだろうか、と思いつつ、「心は女性なのに身体が男性で困っている」人間もいるだろうけど、確かに「根本では自分の欲求や利益のため、自分のイメージする女性像を身に纏い女性を模倣している」としか見えない男性も一定数(あくまでインターネットで観測した一部範囲だが)いるな、とも納得した。
そういう人たちの「自分の中の女性性」は、「実感」ではなくて「想像」なのだ。
そもそも「心の性別」なんてのも、社会的な規範の刷り込みによる産物なんだと思う。
今の世の中、「女だから(男なのに)ピンクやフリフリが好き」みたいなステレオタイプ偏見はどんどん無くしていこう、性別がどうだからじゃなくて、その人らしく生きていけるようにしていこう、という流れになってきている。
それが100%実現されたら、「心の性別」という概念はどうなるんだろうか。
そのとき、今の世でトランスジェンダーと呼ばれる人たちの存在はどう変わっていくのか。
もう少しジェンダーについて掘り下げて知りたいと思ったので、別の本をカートに入れた。
それについての感想文は、また後日書くかもしれない。