日記をweb上に書くことの意味とは何だろうと考える。
本来日記とはとてもプライベートなものだろう。ふと鍵付きの日記帳にあこがれていた子供のころを思い出す。日記とは秘めるものである。
対してweb上の日記というのはそれはもうオープンだ。見ようと思えば誰でも見られる。つまり、web上の日記は「誰かに見てほしくて」書いているものなのだ。
ボトルメールに似ている。誰に届くかわからない。もしかしたら誰にも届かないかもしれない。でも「絶対に届かない」鍵付きの日記帳の言葉とは違う、どこかに流れ着く可能性がある。
誰かとつながっていたいけど、強くつながるのはめんどくさい、そういう心の表れなのかもしれない。きっと私は現実ではだれともつながれずに年を取って死んでいくと思うので、ここに私がいた、ということをなんらか、残しておきたいのかもしれない。
書かなくてもいいようなことだけど、書かなければ残らない。書いたことだけが残っていく。奥歯ちゃんはどんな気持ちでwebに日記を公開していたんだろう。
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京都に住んでみたいと子供のころからずっと思っているけれど、あそこは住む場所ではないよなあということも大人になってわかってしまった。気候もそうだし、観光客であふれる街中もそうだし、土地柄や家賃や、住みやすい要素がない。いっそ学生の時に京都の学校に進学して住めばよかったな。
でも京都という町の空気はとても好き。一か月くらいステイしたい。
もともと田舎の出身だけど、東京近郊に住みはじめて、本当に「文化・ファッションに関しては東京に住んでいる恩恵が圧倒的に大きい」と感じる。インターネットや映像配信が一般的になって久しく、情報格差は私が子供のころに比べればずいぶん小さくなったと思うけど、カルチャーの体験という点において、田舎は東京には絶対にかなわない。行きたい舞台も、見たい展示も、基本的に東京に集約している。おもいついてふらっと演劇を見たり、大きな展示にいったりが東京にいればできる。そもそも映画館も地方だと選べない。この館が満席だから、二駅先の映画館で席を探す、みたいなことは地方だとできないのだ。少なくとも私の地元ではできない。
それがいいとか悪いとかってことまでは私はわからないけれど、でも、今自分は東京近郊に住んでいてよかったと思うし、カルチャーというものに飽き飽きしない限り、今更地元に住めないよなあと思う。窓の外に緑が見えるってところは好きだけどね、地元。