20260119

kicho_0x0
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公開:2026/1/19

今期アニメの『死亡遊戯で飯を食う』が好きだなと思ってみている。

タイトルとざっくりとしたあらすじしか知らなかった作品で、見ようと思って意気込んでいたわけでもなく、なんとなく新番組を録画する過程で対象にいれ、とりあえず1話を見た。

第一印象は変なアニメだな、だった。次に、何か面白いことをやっているなと思った。私がイメージとして持っているアニメーションとはちょっと異なる、今まであまり見たことのない表現をしていたので、それが違和感になったのだろう。

しかしそれもすぐに慣れて「好きだな」になった。

簡単にあらすじを述べると、少女たちによるデスゲームがショービジネスとして成り立っている世界で、自らの意思でデスゲームに参加し、生計を立てている主人公の話、といえばいいのだろうか。

ただ1話の段階では、彼女がなぜそれを生業にしているのか、そこに何か事情があるのか、ということは語られない。居合わせた他の参加者である少女たちの事情も本当に最低限だ。そこには『デスゲーム』という言葉から想像される騒がしい混沌や、どろどろとした熱狂はない。

静かに、淡々と、美しい背景の上で、美しい少女たちがひそやかに感情を交わしながらデスゲームからの生還を目指す。

少女たちの体は『防腐処理』を施され、体がばらばらになろうとも手足が切り落とされようとも、噴き出すのは白い綿のような物体で、血も臓物も溢れない(普通なら失血死するような怪我でも死なないし、ある程度の損傷ならくっつくらしい)

けれど確かに「人が死ぬ」ゲームである。

不思議なアニメだと思った。

人が死ぬのに、心地よいのだ。まるで環境映像のようで、恐ろしいことが行われているはずなのに、少女たちも、描写される背景も静謐で、トラップだらけの館すら『この中を歩いてみたい』と思わせる美しさと存在感がある。

派手なアクションはないが、一瞬一瞬が一枚のイラストレーションとして成立していて、どのカットで止めても絵になる。

BGMは最低限。環境音のほうが印象が強い。

セリフも最低限。必要以上のことを説明しない。

けれど間延びしない。退屈にならない。緊張感が常にあり、それが画面に目を釘付けにさせる。

この感覚に近しいものを『天使のたまご』を見たときにも覚えた。美しい背景と静かな展開、けれど圧倒的な存在感のある画面に目を奪われる感覚は、あまりにも心地よい。

視聴というより鑑賞体験だ。

絵を生業にしている友人と通話した際に、たまたま昨日見たということで、技術的な話を聞けて面白かった。

カメラをほとんどパンしない。アイレベルが少女たちの視線の高さに基本固定されている。監視カメラから見たような画角が多い。引きの画面では背景と少女を塗りつぶすことで『同一の存在』としてなじませ、浮かないように処理している。心理的な分断・対立の表現として、天井のファンや光の効果で、画面上に区切りを付けている。

なるほど、と思った。それは、ホラーゲームの画角であり、仕掛けられているカメラからの映像=『デスゲームを鑑賞している客』と同じ視点だ。悪趣味である。視聴者は知らない間に観客にされている(しかし、事実、能動的に見て『楽しんでいる』時点で『悪趣味な客』と同義である)

昨今『リッチな作画』というと、まず迫力のある派手なアクションシーンがイメージされると思うのだが、この作品のリッチさはその真逆だ。動きが少ないゆえにすべての場面が絵として成立している。静かゆえに音が引き立つ。

主人公に共感も感情移入もできない(できるだけの情報が現状ない)ことが『好ましい』のは新鮮だった。

『静かなデスゲーム』がこんなに居心地の良い魅力的なものだとは思わなかった。

この作品は、原作やコミカライズにはできない表現、『別角度から見たもの』として成立させようとしている気がする。

個人的には願わくば、このまま方向転換せず、最後までひやりとした手触りのままであってほしい。

生々しさを廃して、悪い夢のような世界をずっと見せてほしい。

硬質で残酷な、まるで人形劇のような。

そこに血の気はいらないのだ。防腐処理された少女の体のように。

@kicho_0x0
散文です。