いわゆる、楽しい出来事というのを楽しむのが難しい。
遊園地に行くであるとか、美味しいものを食べるであるとか、そういった他者との楽しさを共有するような出来事について幸せに感じるのが難しい。
この他者というのは決して自分の同伴者として行った人のみを指すのではなく、その体験を共有している相手というのとも合致する。劇場で映画を見ていて自分が面白くなさそうにしていたら、隣に座った観客は楽しめないのではないだろうか、というように自分という存在が他の人の幸福を侵害してしまうのが嫌で、そうはならないように繕うのが精一杯になってしまう。心の底からめいいっぱい楽しむというのは分かりようがない。
では自分は何に対して幸福を感じるのだろうか。人間であるから何らかポジティブな出来事が起きなければ心が荒むし苦しい。では今の自分は何を幸せとして満足感を感じているのだろうか。
これは仮定の話であり、あくまでそう感じているかもしれないという話なのだが、おそらく他者との交流に幸せを感じている。交流というのは授業中に隣の人とおしゃべりしてくださいと言われて無理無理に喋るというおしゃべりなんかでは当然なく、相互に自発的に交流が発生する状態である。
本来全く自分と関係のない相手であれば、その相手は自分と交流する必要がないが、そうではなく、自分と話す選択肢を良しとして交流を持ってくれる。あるいは話しかけても無視されないというのがとても充足感がある。
ただそれは自分が持つ幸せであるのだろうか。他者からの見聞が良いように言葉を取り繕っているのではなかろうか。あるいは自身の中で生まれ、自身の中に消えていくような幸せを持ち合わせていないだけなのだろうか。
このめんどくさい思考ルーチンがあるがゆえにおそらく私は幸せを幸せだと順当に感じられる人間と共にいるのが苦しいときがときたま現れる。それを自分でもめんどくさいと思っているし、他者に迷惑が掛かるくらいなら距離を離してしまおうとなにかいい人のふりをして交流を断つのがいつものパターンでもある。
自分の思考を考えるのはもはや癖であり、その中で揺れ動く自分というものはかつて耐え難いものであったのだが、今はその傾向も落ち着いてきている。このような形のないものを形のないままで自分の中に留めておくのは悪くはないと思えるようになりたい。
話がややずれたが、幸せを感じる感度が悪いというのは、自身の問題であり、解決はやや難しい。(あるいは特定の条件において簡単であるが。)もし幸せというものを明確にできたとき、幸せを言語化した私は言語化された幸せを嫌うのだろうか。