前世からの手紙

23年が去り24年を迎えた頃、『火の鳥』を介して意識は邪馬台国にあった。

滅びと再生を一つのテーマとして描かれた作品の中で「迎春、これも一つの転生かあ」と取るに足らないことに頭の片隅を支配されながら、さて今年は何をしていこうかと考えあぐねていた。

23年はzennなりnoteなりを書き始めてみて、頻度は低いながらも文章を書くということを始めた年だった。「ああ難しいなあ」と思う。他人が読むための文章を書くことはとても難しい。文章を書くこと自体は好きなはずなのに、どうにもこうにも筆が進まない。そもそもこうしてWeb上に文章を残すというのは自分にとってどういう意味があるんだろう。そんなまとまらないことが流れ星のように頭の中をぐわんぐわんと巡り始めた頃、本当に眩暈がしてきた。

本当に、眩暈がしたように感じられた。

実際には、どうやら大きな地震があったらしい。星が頭の中を揺らしているのではなく、星自体が揺れていた。X(旧:Twitter)で「地震」と検索してみる。石川県能登半島を震源とするM7.4の地震。神奈川・東京で30年間生きている僕にとってM7.4は経験したことのないような大きさである。大丈夫だろうか?何が?どれほどのものか想像すらついていない。

薄情なのだろうか、地震に対する関心は薄れていた。Xのタブはものの数分で閉じられている。ただ、Web上に文章を残すことを考えていた最中、地震のことを知るためにWebを利用したのだなあということを思った。そして『As We May Think』を思い出す。Memex構想自体からは遥か彼方にいるものの、部分的にこのシステムは世の中に実装され、知りたい情報を瞬時に獲得することができる。そしてそれを享受している自分は数分前に考えていたこととは全く別のことを考えている。嫌だなあと思う。

じゃあ僕は誰に何を伝えるためにWeb上に文章を残すのだろう、という問いかけが、先ほど走り去った反対方向から顔を出してきた。それは恐らく、未来の自分だろうなと感覚のようなものがよぎる。何のために?たぶん、余暇を美しく楽しく生きるために。

未来の自分が思い立ったらすぐに読めて、地震があっても生きていく中で失われることがないよう、Web上に自分のための素敵なコンテンツを残そう。

恐らく、好きなことを雑多に語るようなものになると思う。夭逝のSF作家である伊藤計劃だとか、それを愛した伴名練、そして彼らの素晴らしき作品たち。ヘミングウェイのかくあるべきという死を描いたブラッドベリ。キリマンジャロの山頂で干からびて凍りついた豹の屍。もしかしたら水滸伝の108星それぞれへ想いを綴った文章を書き殴るかもしれない。ガリヴァ旅行記も読み直して槙島聖護と語り合いたいと思うし、今更serial experiments lainの解釈を綴るかもしれない。

要に、未来の自分が読んで懐かしみ、時間をかけて楽しめるようなものを書いていきたいと思う。

30年後の転生に向けて静かに、インターネットで

@kilimanjaro
未来を生きる自分へ