年末年始を良い例として、長期休暇の間ほとんど僕は孤独というものと向かい合うことになる。それは喜ばしいことでもありながら、やはり寂しいものでもあるのだと思う。
「誰かが孤独になりたいとしたら、死んだ{デッド}メディアに頼るのがいちばんなの。メディアと、わたしと、ふたりっきり」
とミァハは答えた。
あの冷たくなめらかで、ヒトを眠りに誘{いざな}うような声でさらに続ける。
「映画とか、絵画とか。でも、持久力という点では本がいちばん頑丈よ」「持久力、って何の」
「孤独の持久力」
孤独といって真っ先に思い浮かぶのが、ミァハのこの口上。このやりとり自体は大好きなんだけどどうにもしっくりこない部分がある。それは恐らく僕が本を読んでいる時に孤独を感じないから。そしてそれは生きているメディアを頼っている時も同等の感覚に陥る。
例えば会話に出てくる本に関しては作者・筆者との接続を意識するし、さらに追求すると誰もインしていていないオンラインゲームをプレイしていてもそれは同じだろう。開発者をどうしても意識してしまう。たとえそれがFF14のような巨大なMMOタイトルであっても、その世界で生きているプレイヤー数云々ではなく、「吉Pはこういうところに拘っているのかなあ」と考えてしまう。その時点で孤独になりたくてもなりきれていないのだ。
孤独というものの感覚に微妙な解釈の差異があるのかもしれない。学術的な定義は好きではないので放っておいてくれ。ここにおいて認識を合わせようとすることに何の意味も味気もない。答えが欲しい訳じゃあない。
ただ、思いに耽ていたいのだ。
それは孤独への抵抗力となる。
「友達は作らない。人間強度が下がるから」なんて阿良々木くんも言っているでしょう。僕はこういうイタい台詞が大好きだった。分かるでしょう?誰しもどこかで共感している自分がいるでしょうと思う。これは孤独への抵抗力だ。ただ、友達を作るとかどうとか自らの行動に関係なく、人間強度を脅かす孤独というものは既にそこにあるものなのだと思う。生まれた時から皆等しく人というものは孤独であり、それから逃げ切れるかどうかのレースを強いられている。
孤独? それは私だけに当てはまりますか? この社会で一人ではないのは誰ですか? 他者とのつながりが自己の基盤だった時代はとっくに過ぎ去っています。 誰もがシステムに見守られ、システムの基準内で生活しているこの世界では、コミュニティは必要ありません。 誰もが自分の独房に住んでいるだけで、システムはそれぞれに独自の静けさを与えることで彼らを飼いならします。
ここがスタートなのだ。皆、生まれ落ちた時からそのラインに否が応でも立たされている。
そして賢狼ホロはキルケゴールのように宣告する。
「孤独は死に至る病気です。」
こんなものかあ、と顔を上げた
顔を上げた先にあった本棚の、一冊に目が止まる。
『新しい世界を生きるための14のSF』
嫌な予感がする。