火葬

kotori
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今、桜庭一樹さんの『少女を埋める』を読んでいる。ちょうどお父様がお亡くなりになったくだりで、思ったことがあったので書き留める。

今まで生きて来て、葬儀に立ち会うことは当然何度もあった。

中でも忘れられないのは幼い頃、近所の可愛がってくれていたお姉さんがお嫁に行った後、出産で命を落とした時のことだ。たぶん幼稚園の頃か。祖母に手を引かれて参列した葬儀は、断片的だが幼いわたしの脳裏に強烈な記憶を焼き付けた。白木の御棺の中で眠っていたお姉さんの美しさ。でも生きていないという現実の生々しさ。赤ちゃんを抱きながら泣いていた旦那さんの言葉も忘れられない。悲しいというより何もかもが鮮烈すぎて圧倒された。出棺の後の席で、わたしは何も食べられなかった。そこで記憶は途切れている。

長い間、不思議なめぐり合わせで火葬後のお骨上げに立ち会わなかった。別に避けているわけではなかったが、なぜかいつもそういうめぐり合わせだったのだ。大人になるにつれ、これは困ったと思った。何度か経験しておかないと、もっと身近な人を見送る時に耐えられなくなってしまうのではないかと心配になってきた。わたしの頭の中に焼き上がった骸骨の恐ろしい姿が浮かぶ。どうしてみんな普通の神経で、お骨上げなんかできるんだろうと思った。怖くないのか。うなされたりはしないのか。どうしてその後普通に日常生活を送ることができるのだろうか。自分とその人達との間に、一種の分断さえ感じた。

数年前、夫の母を見送った。そこでわたしは初めてお骨上げの場に出た。火葬炉から出て来たまだ熱の残るそれを見た時、どうしてこんなに紙の燃え残りがあるのだろうと不思議だった。そしてすぐにこれが夫の母の姿であることを知った。もちろん所々骨は残っていた。それらは小さく白く、限りなく美しかった。怖いとはまったく思わなかった。ただただ畏敬の念だけが込み上げ、そして愛しいと思った。

その後、何篇か書いた小説で、火葬をモチーフにした。読んで下さる方の中には変な作者だと思われたかもしれない。だがそれほど自分にとっては大きな経験だった。死すことはすべてがネガティブということではない。いつか親を送り、自分もまた逝く。そして焼かれてどうなるのか。それをようやく知ることができて、むしろ安堵している。

@kina
願うのは静かな暮らし