5.3

kinako
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本を読んでいる時は、一人か二人だ、と思う。

何かの知識を得るための本を読んでいる時、その知識の部屋に私は一人で入り込み、順々に部屋を巡っているような気分になる。その時そこには私しかいなくて、何かの知の倉庫の中に、私は一人で入っている。そこには知識の部屋と、私しかない。

物語の時もそうだ。物語の世界の中に、私は一人で入る。誰かと一緒に入るということはなくて、世界の中に人や生き物はいるけれど、私と同じ位置に人はいない。だから、一人と一世界、という感じがする。

二人だ、と思うのは、エッセイぐらいかもしれない。エッセイはこの世のどこかの誰かの、頭の中に入り込んだような気分になったり、その人がぽつりぽつりと部屋で一人話しているところにお邪魔して、その人が座っている椅子の前に「どうぞ」と置いてある椅子に、座っているような気分になったりする。そこにはその人と私しかいない。

私は本を読むことが好きだけれど、年中いつでも読めるかと言われたらそうではないので、間があくことも多い。少しだけ久しぶりに本を読むといつも「本を読んでいる時間は、とても静かだな」と気づく。

本を読んでいる時間、そのとき居る空間には、人が少ないから。本と私しか喋るものがいない。基本的にはずっと本が喋っていて、たまに私も「それってどういうこと?」「そうなんだ」とか反応をしたりする。でも基本的にはずっと本しか喋らない。語り手はひとりで、私はその言語空間に、本を開いている間はずっと身を置く。静かで、一定のテンポがあって、そこには何も混ざらないし、澱まない。外野から誰も何も言ってこない。静かで、きちんとその外と内が分かれていて、守られている。本には一定のルールがあるのだ。何かについて語る本であれば、それ以外について突然誰かが喋り出すことはないし、物語の本であれば、突然物語が終了して「やっほ〜〜!」とかそこに誰かが乱入したりしないし、エッセイであれば"その人"がずっと喋っていて、他の人の文章がいきなり混入することはない。だから、久しぶりに本を読むと、いつもその静けさと秩序に安心する。私と、何か(だれか)しかいない。他に何もない。

そう思うのは多分、私がSNSを日常的にやる人間だからなんだろうな、と思う。SNSの言語空間はルールがなく、いつでも自由で、無秩序だ。同じ人が同じ文体でいつも喋るわけではないし、自分の見る世界を自分好みに作っていたとしてもある日見たくもないものが目に入ったりするし、たとえあるジャンルのみに見るものを絞っていたとしても、何かしらそれ以外のものが世界に割り込んでくる。そもそも、私たちが日常過ごしている世界自体もそういうところはあるけれど、SNSはその距離が短くて、スピードも速い。めちゃくちゃ大きな世界が、小さなところにぎゅっと圧縮されている。私の部屋に今突然空からアンパンマンが降ってくることはあり得ないけれど、私のTwitterのタイムラインにアンパンマンの画像が突然出てくる可能性は全然ある。私の通勤電車にいきなり有名人(有名人ってなんだろう)が現れて声をかけられる可能性は極めて低いけれど、有名人のアカウントにリプライを送ることはできる(私はそれを好む人間ではないのでやらないが)。

そのぐらい、SNSというのは無秩序で、ごちゃ混ぜで、敷居がなく、距離が近く、色んなものが乱入してはすぐに飛んで消えていく。ルールのないゲームみたいだ。私はそれを好んでもいるし、時折うぇ、と思ったりもして、好きでも嫌いでもありながら、日常的に使っている。それを良いとか悪いとか言いたいわけではなく、そういうものを、意識的にそうとも思わず常日頃見ているからこそ、多分、私は本という秩序立った言語空間に身を置く時に、どこか安堵するのだ。ここには何の矢も飛んでこないし、誰も乱入してこない。この文字が突然ぐちゃぐちゃになることもないし、消えることもないし、突然終わることもない。なぜならここには私と、本しかいないから。静かで安全で、私か、私とあなたしかいない。

今日はエッセイを読んだ。そこにはその人と私しかいなくて、分かったり分からなかったりして、でも確かにそこにいるその人を見て、安心した。語られるその経験を、考えを、感性を、その瞬間私は椅子に座って静かに聴いている。静かで、一定のリズムがあって、心地よい一人の音がする。書いている間きっとその人は一人で、でもそれを確かに誰かに向けて書いていて、目の前にそのための椅子を置いている。そしてその時語られた言葉を、私が一人、椅子に座り聴いている。静かで、その言葉とその人と私しかいないその時間を、私はやっぱり好きだなと思うし、ちゃんと持っていたいと思う。

@kinako3101
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