就職活動をしていた頃から死ぬほど嫌いだった言葉があって、いや、嫌いな言葉なんてたくさんあるんだけど、そのひとつが「自責・他責」という言葉で、いや、言葉というかその周りにある概念が多分まるごと嫌いなんだな。
確かにこの世界には、何でもかんでも他人のせいにしたりする人、自分の不幸のすべてを外的要因の中に片付けようとする人がいるのはわかるんだけど、それを咎めたい人がこの概念を使うことも分かるんだけど、そういう人をこの概念で非難することよりずっと、明らかに環境や他人のせいでダメージを受けている人がこの枠組みの中に収められる理不尽さの方がずっと大事(おおごと)だろ、と思う。「何でもかんでも自分以外のせいにする人」よりずっと、「明らかに環境のせいで被害を受けている人にその概念を押し付ける行為」の方がよっぽど害悪なのに、前者を咎めたいという感情を優先しているこの言葉が、概念が、私はやっぱり死ぬほど、今も嫌いだ。
押し付けがましさを感じる何かの言葉や概念に嫌悪感を抱いた時、いつでも「でもそれは私が甘いんだろうか」「それは私の自己都合なんだろうか」「私が個にフォーカスし過ぎなんだろうか」みたいな迷いが頭の中に走る。でも、やっぱりその最初に感じた嫌悪感は後から考えても正しくて、その理屈は後から考えてようやくわかる、みたいなことは多々ある。感覚だけを信じるのも怖いけど、意外と信じてもいい時はあるなと思う、特に嫌な感覚は。論理は後からついてくることも多い。窮屈さとか、歯痒さとか、息苦しさとか、その感覚の中身は紐解けなくても、その場はそれを信じたら良いんだなと思う。なんか居心地悪い感じがするものやことには大体、おかしなことがある。