3月も半ばを過ぎると陽の光も風の感触もすっかり春を思わせる。木々はまだ芽吹こうとしているところで、細い枝からわき上がるように咲きだす花は色や香りに冬の名残りを留めている。
2月の終わりには空気の中に春が忍び込んでくる。晴れた夕暮れの空は深いグラデーションをたたえて、窓を開け冷たい風に吹かれていると心の中に「もうすぐお母さんが帰ってくる」という声が聴こえてくる。独特の喜びと不安、緊張を含んだ幻のこだまだ。もう母が家に帰ってくることはない。母のいない二度目の春にも母が愛した花は咲く。
3月は母を思い出すきっかけが多い。ひな祭り、誕生日、お彼岸、次々に開く春の花、お出かけや旅行。懐かしいだけでなく、切なく寂しい気持ちもくりかえし打ち寄せる。
毎週通っている大学の図書館も2~3月にかけて開館が変則的になる。短い休館期間のあと久しぶりに訪れ、気分が明るくなる映画をとアメリカの古いコメディを選んだ。大満足の余韻に上階で書籍を読む気にならなくて、まだ時間も早いので家まで歩いて帰ることにした。
バスターミナルでスクールバスを降りてターミナルの横から抜け道を選ぶ。緑が多く広々して気持ちのいい道だ。木々の梢の上にホテルの塔屋がのぞいている。横目に歩くうちに思い出した。この時期にこのホテルで母の米寿を祝ったのだった。あれは何年前だったか。母が88歳だから…5年前だ。
たった5年なのか。
姉一家やそれぞれのパートナーが集って、個室での会食、前の年に結婚した姪がウエディングドレスを着てくれたこと、うれしくて泣きだした母の顔…鮮明によみがえる。下の姪もその秋に結婚して、もう2人それぞれに子どもがいる。母はそれを見届けて亡くなった。子どもたちは成長してかけ回り、おしゃべりもできるようになってきた。
たった5年の間に。本当に、いろいろなことが、あったのだ。でも今年はホテルの塔屋を見るまで思い出さなかった。そのことが小さな驚きだった。母の最後の帰宅はつい2年前。それも少しずつ遠のいていく。
ターミナルから家までは1時間ほどで歩けた。案外近いのだ。季節が進んで、家に着くまで空はまだ明るかった。(2024.3.16.記)