という映画が公開されているらしい?そのことではなく。
今年の三月は寒い日が多くて桜が咲きだすのも遅かった。ようやく暖かくなり始めた三月の終わり、母の部屋をいよいよ片づけ始めた。冬は寒い場所なので暖かくなったらそうすると決めていた。
もう本当に母の衣類や日用品ばかり。これまでのように協働者がいるものでもなく、大量のそれらをひとりでコツコツと整理していくしかない。見るだけ、触るだけで様々な思い出が吹き出して平穏を保つことができなかった品々も、さすがに往時との隔たりを感じて右のものを左に移すことができる。いわゆる「魂が抜けた」状態になるのだろう。時間とは凄いものだ。
…と思いたいところだけれど、やはりじっと手が止まってしまうものは時々出てくる。思い出が感情があふれてくる。次から次にというわけには行かない。そんなに簡単では無いのだ。
そうこうしているうちに季節は進んで庭の花々が咲き、桜が満開になって世界が明るくなる。でも花を見て思い出すのは母のことばかりだ。そうして過去へと心がさまよっていく。振り返っても母はいないというのに。
さらに気温が上がると新緑が顔を出しはじめる。桜の花びらにうっすらと残っていた冬がすっかり終わりを告げる。明るいとはいえどこか儚さをたたえた桜のあとの新緑に鮮烈な生命の息吹きを感じる。でもそこに咲き残った桜がまぎれていくのが垣間見えると、何ともいえない悲しみが襲ってくる。全く、書いているだけで気が滅入ってしまう。
そんな春を過ごしている。母のいない、まだ二度目の春なのだ。いろいろな始末を終えて少し心に区切りがついたと思えたのが一月の半ばだ。この四月は母が亡くなって一年半。いいのだ。まだめそめそすることがあっても。我ながらうっとうしいにしても。
燃えるごみの日に日常のごみと一緒に母の遺品や不要品を袋に詰め込む。その時に改めて鮮やかに蘇ってくる思い出がある。収集場所に出してからも手放していいのだろうかという不安に襲われる。もちろん取りに行ったりしない。収集車が来て去って行く。投げ出された空っぽのネットをたたむ。もう取り返せない。これでいいのだ。そんな日がまだまだ続く。(2024.4.14.記)