30代になった時に、一番「おわぁ……」と思ったことは、30代女性の10年間、ほぼほぼ厄年なことなんですよね。前厄後厄合わせたら、30代の半分は厄年なの深刻なバグすぎるんよ。
特定の宗派を信仰しているわけではないし、歴史的な知識も浅い(歴史に限らず学生の頃の知識ほぼ抜けている)上に、両親ともにそれほど信心深くはないのですが、何故か私は割と信心深い方です。八百万の神々はいるやろなー派と言いますか。
日本人の宗教観の話をする時に「無宗教者でも、道端のお地蔵さんを蹴とばしたり粗末に扱うことは出来ないでしょう?」というような話が出たりしますが。仮にそこを一般的な基準にすると、私は+αとして手を合わせたり何かを供えたいと感じるとこまでいきます。
それぐらいの感覚を持っているせいか、厄年になると積極的に厄払いに行ってます。行ってますというか、行きたくなるので行きます。
大厄の年の時、2月ぐらいに同い年の友人達と「今年は大厄だし、厄払いしておきたくない?一緒に行こう?」という話になりまして(こういう発想が出るあたり、友達も大概信心深いほうですね。類友です)私はその時まで「厄払い」という存在を知らなかったのですが、この時以来、前厄後厄関わらず、厄年にはなるべく早めに厄払いに行くようになりました。
気休めと言ったらそれまでではあるんですが。実際、大厄の年に別の友人達とお茶に行って近況を喋り合ってた時に、みんな結構碌な目にあっていなかった上に、私自身は平穏に一年過ごせたので、行っておいた方が安心して過ごせるという印象が強まった部分があります。
現代になって、過去に霊や悪魔に憑かれたと言われていたような"現象"が、実は何某かの病気の"症状"だったのではと推測が立つことも多くなったので、もしかしたら"厄年"というものも"この年齢になると心身にガタが来やすい"というだけなのかもしれませんが。
人は、何か自分以外の存在を愛したり信じたりすることで、力を得られたり、踏ん張りが効いたりします。それが2次元の推しなんかの、架空の存在であっても。なので、そういうものの延長・類似として、私はこれからも何かの折には神様の元を訪れると思います。
自分単身で生きてると思うより、神様が見ていると思っていた方が、心強いし、身も引き締まりますからね。
ちなみに、厄払いに行く場所は、最初の時からずっと「東京大神宮」にしています。特に意味はないです。ただ、一番最初に友達と厄払いに行った場所が東京大神宮だったので、これも何かの縁だろうと思って、厄払い=東京大神宮に行くになっています。去年は1月2日に、今年は1月3日に行きました。厄年こわいマンすぎる。それだけ早くに厄払いに行くので、先に顔出しておかないと失礼かなと思って、氏神様のとこには1月1日のど深夜に行きます。ここだけ聞くと特定の宗派に属してそうなのにな。ないんだな、これが。
去年は、私にとってあまり良い年でなかったと言えばそうなんだけど、それ以上悪化しないように大人しく過ごせたという意味では良い年だったので、今年は無理しない程度に飛躍の一年にして行けたらと思います。がんばります。