「書きたいことがない」
数日前に読んだ「『書きたいことがない』の時点で既に岐路を過ぎている」みたいな趣旨のエッセイが忘れられない。
今や何もかもうろ覚えで元記事を探せど見つからないので、1mmたりとも正確な記述ができないのをご容赦いただきたいが、書きたいことが無いが作家になりたいという相談に対して、作家になった人というのは書きたいことが自然と目に留まってしまうという生態を有しているという回答がされていた。
つまり、書きたいことが無いとかネタが無いとか言っている時点で既に物書きとは一線を画しているのだ。そういった主旨のことを自分は受け取った(ということだけ覚えている)。
似た話は絵で聞いたことがある。描かずにいられないから描いているのだ的な。自分もそのように歌いたいから曲をつけたとか、そのように弾きたいから即興で弾いたとかいうようなことを平気で言うが、良く言えば手癖、言葉を選ばなければ引き出しの無さにより、永遠にカノン進行を弾くことになる恐れはあるものの、しかしながら「書きたいこと(表現したいこと)を書く」という観点においてはそれでもよい、ということなのかもしれない。自己完結。
「連載 第119回」
さらに数日前、漫画家・コラムニストのカレー沢薫さんという人の文章に、登場している語彙こそ違えどこういうのが書きたいんだというものを得た。pixivisionのコンテンツに読者からのお悩み相談に同氏が答えるという連載があり、3回出展してお客さんゼロだったが誰かと交流して作品を見てもらえるようにしたほうがよいのかという感じの相談に、その結果を前にしても筆を折らないそのメンタリティがいかに稀有かという回答をしており、めちゃくちゃ良かった。
「イベントで3回連続誰も来なかった」描きたいものとやる気さえあれば一人でも続けることは可能/カレー沢薫の創作相談
いつもなら他にも連載があるかもしれないだなんて微塵も思いもせずそのままタブを閉じるところ、今回ばかりは我ながら何を思ったか回答者の氏名でググってみたら、案の定他の連載が見つかった。それもたくさん。中にはフリーテーマのエッセイで連載第119回とかいう数字を冠しているものがあり、かなりの衝撃を受けた。連載自体も複数の媒体でされており、同氏のカレンダーに毎週のように開催されているのであろう締切(デッドライン)祭を想像した。(cf.『部屋と締切(デッドライン)と私』)
一本釣りに繰り出す勇気を持て
書きたいことを拾って並べていく方式は無限に広がる海から一本釣りをすることである。頼れるものは己の腕と感覚のみ。大物が獲れるかもしれないし、手に負えなくて逃すかもしれないし、魚がまったくかからない日もあるかもしれない。どのエリアを当たればよいのかも自分で決めるしかない。
枠を作って埋めていく方式は養殖である。給餌システムや出荷ルールを整え、枠の中で完結するように整備する。フォーマットの助けを借りて素材(脳裏に溜まったアイディア)を整理する。規則性が浮かび上がってくるように見えるので、管理さえ止めなければ永遠に養殖できそうな気がしてくる。管理さえ止めなければ。
自分が自然とやってしまうのは仕組み方式である。枠を作りその中身を埋めていく穴埋め方式的な順番が脳内で組み立てがしやすくて、おそらくはあらゆる段取りの土台として無意識に採用している。例えば、日記は見聞きしたことを時系列ですべて書こうと思ってしまうし、資格試験の勉強は教材を片っ端から潰し込んでいくという方針で勉強計画を立てていく(ただしこれまでの実績に照らすと、管理システムに素材を充分に溜め込むどころかテキストの大半を読めずに試験当日を迎える)。
だから、広くて深くて暗い海からネタを拾い上げるという行為を枠のない状態のまま勇気を持ってやることが今の自分には必要なんだな、そしてぼんやりとでも素材を確保してある時点で(それが発信に足る内容であるかどうかは別途考えるとしても)充分なのだな、と思った。
今回で言えば、釣り上げることにしたのは「最近読んだ投稿が忘れられない」である。他にも読んで考えたことはあるし、思ったことをすべて掬い取ったかどうかも定かでない。しかし、あの一言を源泉とし今思い出せることしか書いていない。たぶんそれでよいのだ。
(終)