推し活について最近考えてる。
推し活って大変だな。
推し活は面倒だと感じる。
推しに喜んで自分を捧げている人って凄い。
私には推しという他人に捧げる時間もお金もない。
時間については、仕事や家事以外の時間を覗いたら、編み物などの趣味に使いたいし、推し的な存在がいたとしても全部追えない。
お金については、そんなに働きたくないし、今限るある範囲のお給料で、必要なところにお金を出してあまりお財布の紐を緩めたくない。
推しという存在がいたら 一喜一憂して疲れるし、 推しを支えるためにお金たくさん使うし、 SNSの情報収集で情報過多で疲れるし、 コンテンツ追うためにたくさんの時間使って プライベートな時間削られし、 私には推しはいらないなと思う グッズはたくさんいらない。管理できない。
現代の大量消費の推し活が私の価値観とミスマッチ
こんな私でも過去には夢中になれる存在がいたし、 それなりに楽しかった。
今も気になる存在はいる。
そのためにお金や時間を使うこともあるけど、 推し活ってなると大変だし、推しにはしない。 ちょっと好きっていう薄い熱量を適度に保っておく。 好きだけど、ファンじゃない、推しでもないってレベル。
私は何かの色に染まるのが嫌い。
推しという色に染まるのも嫌い。
推しが生活の中心になるなんてとんでもない。
最近SNSをチラ見して思った
推しの売上のためにCDを買おう、積んで、普段飲んでるスタバの飲み物をちょっと削ったらCD一枚買えるというファンによる圧を感じる投稿を見た。
これを見て面倒だなと思った。
推しのCD売上に消費者側が責任持たないといけないの?
CD売上だけじゃなくて、推しのSNSのフォロワー数、いいね数、拡散の数、再生回数とか。
それを見て喜んだり、不安に思ったり、一喜一憂。
ライバル的な存在に推しの数字が負けていたら苦しくなる。
今の推し活は推す側が推しの数字を気にしないといけないんだな。
ただの消費行為が仕事みたい。
昔の推し活はもっと緩かったな。
推しの数字なんて気にしなくても良かった。
SNSもなく、純粋に楽しめていたあの時代に戻りたい。
過去には推しがいたけど、今の私に気になる存在はいても推しはいない。
気になる存在のためにCDを全形態買ったり、ファンクラブ入って、当たればコンサートにも行くけど、推しではないし、ファンにもなれない。
推したらしんどいし、推しにはしたくないなぁって思う。あんまり深入りしたくない。たくさんの時間とお金をかけて貢いで結果的に推しが結婚したら許せなくなってしまいそう。前の推し活の時に推しが解散したり、結婚したのがちょっと辛かった。二次元ジャンルだと思ってもいなかった結末で残念だった。
気になる存在がいても自分のできる範囲で気になったら見るぐらいがちょうどいい。
他人の定義であなたは◯のファンじゃないと言われても別にファンであることはスティタスじゃないし、 ファンと認められなくても問題ない。
ぶっちゃけ推しがいなくても大丈夫。
いない方がメンタル安定してるかも! 刺激は減って退屈になるかもしれないけど、退屈は退屈でいいかもしれない。
HSP的な感じやすいところがあるから、刺激がない方が楽なんだ。
推しの存在で楽しくなったり、悲しくなったり、自分の精神状態が左右されるのは恐い。
推しから与えられたものをただ消費していくだけの人生は嫌だな。
過去には推しという存在がいたし、 今まで推し活をしていたつもりだったけど、 現代の消費中心の推し活と私の価値観が合わないと感じていて気が付いたら静かに降りていた。
私は大量消費するよりも、 与えられた少ないものを味わって食べて解釈して、自分の中で物語を創造するのが好き。
推しを大量消費するのは大量に与えられたものを慌てて飲み込んで消化不良のまま、 また新しいものが与えられて また慌てて飲み込んで、 そのループになっているような感覚がした。