憧れの字書きは、ツイッターに一切自我を出さない人だった。当時Xではなくツイッターだったのでツイッターと呼ぶ。
この人の文章上手いなあ、この人の話好きだなあ、そう思う人ほど淡々と作品だけを流していることにある時気づいた。ツイッターにいわゆる「自我」がない。
私は好きな同人作家にどんな嗜好があって、どんな生活をしていて、日頃何に関心を抱いているのか知りたかったが、何も見せてはくれないのである。TL上にあるのは推しカプのことだけ。原作の他のキャラクターの話すらなかったりする。そしてその仕組みに気づいた。「その方がフォローしやすい」のだと。
その人の書く推しカプが好きでも、毎日ペットのカエルの画像が流れていたらフォロー出来ないかもしれない(私はカエル好きだけど)子どもの話は妊活中の人には地雷かもしれない。美味しいご飯の話くらいよさそうなものの、毎日毎日こんな食事をしてお金持ちなのね、とか僻まれるような箇所がツイッターである。注目される人ほど他人の地雷を避けて推しカプ以外の話をしないのだ。
作品で語る。それはめちゃくちゃかっこいいことに思えた。私もそうなりたいと思った。それにたくさんのフォロワーが欲しいとも思った。
おしゃべりな私がツイッターの運用から極力自我を消し、どうなったか。まあツイッターがしんどくなり裏アカが荒れた。
何せスマートに作品のみツイートする運用方針である。書いた!!!読んで!!!とか言えない。読みたかったら読んでくださればいいのよオホホという心持ちは承認欲求の塊である私には難しかった。読んでくれ!感想くれ!構ってくれ!仲良くしてくれ!と心の中で叫んでいた。作品から感想が来たら舐めまわすように読み、感謝でござる100回スライディング土下座アアみたいな銀魂テンションのまま「ありがとうございます。うれしいです♡」とか書いた。本当にありがたいことに話しかけにくいアカウントでも作品を好んで話しかけてくれる人はいたのだ。
もともといたジャンルでは毎日相互の作品をチェックしリプで感想を送り合い自我もボロボロ呟きオフ会をするようなタイプだった。感想というのは「送り合う」ものだった。ギブアンドテイク。
自我を捨てたことで、初めて「テイク」だけ与えられる喜びを知ってしまった。蜜は甘かった。もっと欲しかった。もっと欲しいけどもっと欲しいとは言えなかった。その心の中の矛盾が、だんだん私を苦しめていった。
みんなが楽しそうに話している。入りたい!入れない。
ちょっぴり自我を出してみたりもした。美味しかったご飯です!別に大した反応はこないし、たまたまかもしれないがフォロワーは減った。
楽しみが数字しかなくなった。この小説100いいねか。前回は300いいねだったのに。ブクマ60しかつかないから下げちゃお。もっとタイトルをキャッチーにして読まれることが大事かも……
数字、数字、数字、たまにくる感想を吸いつくし、とうとう自分のやりたいことがなんなのか分からなくなってしまった。
わたしは
推しカプを
推したかったのではないか?
原点に立ち戻り、愕然とした。承認欲求に飲まれ、数字至上主義に陥り、感想の甘さに溺れ、推しカプすら「数字の取れる小説を書くためにこの2人に何をさせればいいか」と利用している始末だった。推しカプに対する冒涜だ。
心を改めて、別のジャンルで書いてみることにした。でもダメだった。数字に毒された脳を情熱で上書きすることはできなかった。見えてしまう。いいね数が。ブクマ数が。RT数が。印刷部数が。売上が。
そして私は同人から離れることにした。
もう下手な見栄で無理をしないため、最後に「同人辞めるので自我しかないです」という鍵アカウントを残した。
最初から最後まですべて、私が我が道を歩かず、承認欲求に依存して他人軸にもみくちゃにされた話である。
離れてからしばらく、自分軸で生きる方法の本を読みまくったり、承認欲求を他の欲求で満たせるように居場所を作ったりしていた。今ではずいぶん落ち着いた。大好きだった推しカプを、自己表現の道具ではなく純粋に大好きだと言えるようになった。数字は他者と比べるのではなく自分の過去と比べるやり方も覚えた。
自我はこのとおり、出しまくっている。今ならもう一度できるかもしれないと正直思っている。でもしばらく手を出さないと思う。
またもがき苦しむのも嫌だし、なにより同人を捨てて空いた時間に大切な仕事や趣味を流し込んでしまったからだ。
そこをこじ開けてでも同人に戻りたいと思った時に、戻るかもしれない。戻らないかもしれない。今はそんな距離感がちょうどいい。
長ったらしく書いたけれど言いたいことはひとつだけである。
同人は自分軸で推しカプを愛でるためにやろう。
当たり前すぎるか? 当たり前だよな。私があまりにも不器用で様々なものに飲み込まれただけで、みんな、できてるのかもな。
おわり