親しい人に先立たれ悲しみに暮れて泣くことができる人は辛いだろうけれど一方幸せな人だなと思った。
悲しみの裏には愛がある。
憎しみもだろうかと思った時ふいに涙が溢れてきた。感情のない涙。それはどこからやってきたのだろう。出口を探していた塊が溶け浮上して溢れてきたのだろうか。
3年前の2月、継母は亡くなった。その知らせを受けたときの大きな安堵感をどう表現したらいいのだろう。
物理的に生活の拠点が離れたとき、簡単に会えない距離に住んだとき、電話連絡もできなくなったとき、そして亡くなったとき。段階的に安堵していた。
もがいて抱えきれない気持ちは解決しないまま凍らせて仕舞い込んで知らないフリをしてきた。そうでなければ生きていけなかった。
「人を憎むなかれ」
呪文のようにこの言葉は縛りつけてくる。憎しみが増すたび締めつけてくる。
裏返したらそこに隠れていた愛があった。
わだかまりの鉛のように固まり重く凍って沈めていたものが軽くなって溶けていく感覚に包まれる。
憎むことを許せない自分の姿がそこに佇んでいた。
憎しみの存在を許した途端気持ちが楽になった。
「許しましょう」という言葉は相手を許すという意味ではなく自分を許すことだろうか。
私はずっと放置していた塊を抱えたまま死んでいくだろうと諦めていた。それでも仕方ないなと。
溶けて溢れてきたものはうわずみだけかもしれないし少しだけ残ってるかもしくは全てが溶けたのかもしれない。
見えないしこれからも手探りで見つめていくしかないけれど、次の扉を開けて一歩前に出てきた気がする。
私たちは生きている限り見たことのない心の世界を体験することができるのかもしれない。