終わらない問いをみつけてみてください。
これは半年間受講した「書く講座」質問コーナーでの、講師から私への言葉。私の質問は、”講座を受けて少しだけ書くことが分かってしまい、逆に遠ざかったような感覚もあります。もう一度”書くこと”に接近するにはどうしたらいいか、助言ください。”というもの。
書くことが少し分かったというのは、以前よりも苦労せずに思いを文章に載せられるようになってきたとか、すすんでふれがたいがスルーもできない主題に近づけるようになったとかだ。一方で遠ざかるというのは、文章にした結果、選んだ主題や課題を、半ば”成仏させた”あるいは”パス”したようなスカっとした心持ちになり、そこから今一歩深めることができないことだ。
冒頭の言葉を補足する形で講師曰く、「きっとこの方は、分かってしまったことを探求しなくなることに気付いている。」と。学問であれ仕事であれ趣味であれ一旦のめり込んだ事でも、”あー、こういうことか。”と要点を掴んだ気になると、興味が薄れてしまう経験が少なくない。続けて講師は、「だからぜひ、終わらない問い、容易に答えに出すことのできない問いを深め続けてください。分からないことの前で佇んだり沈黙してください。」と。
以上の経緯から、今回は次の課題に取り組んでみることにします。
追加課題
「自分にとっての終わらない問い」という主題で1000文字以内で文章にしてください。
「しらふなんです」
ちしき、ってなんだろう。
知っていること分かっていることは、知らないこと分からないことよりもいい。
これから向かおうとする場所や、もうすぐやって来る未来を想像して、そなえることができるから。
そなえることで、あんしんできる。
けいけん、ってなんだったろう。
じっさいに一歩進もうとする。知らないものが現れはじめる、ゆうきがいる。
でもジタバタしていると、次第に手や足が動くようになる。意識せずとも、連動しだして。
以前とは別のじっかんを手にしている。
だとすると、さらなる一歩は最初にさだめた方向から変わっていても、何もおかしくない。
ではけいけんをたくわえた先に、何があるんだろう。
いろんなことを上手にできるようになったり、人にえいきょうを与えたりすることができるだろう。
そんなものは要らないと言いたい、が言えない。心のえいようになるからだ。
けど、ほんとうは必要なものではない、と思う。
なにはともあれ、今いる場所からは知りえない、ナゾだ。
不思議にもこうかいをしたことがない。恥ずべきことなのかもしれない。
最善を尽くしているわけでもなく、失敗も少なくないのに。
こうかいの直前にある人は、つかもうとする未来と共にある。いわば、よっぱらうことができているのではなかろうか。
かたや私はいつもしらふ。未来に酔えず、その反動としてのこうかいが、できない性分なのかもしれない。
しらふなのは、ひとの気持ちのひだを見逃さず読み取り、即応するためだろうか。
ひとの気持ちほど未知で予測不能なことはない。またひとの気持ちが自らに向かうほど、ときにおそれの対象になるものはない。
ひとの気持ちは、ちしきによって備えられず、けいけんで制御することもろくにできない。
かたや、ひとの気持ちほど、こころづよいものはない。
ポキリという音の前兆は自らには聞こえづらいもので、かえってひとにはよく響き、肩を貸してくれるようだから。
私の終わらない問いは、ひとの気持ちに近そうである。
(840字)
後記:正直実感としては、どまんなかストライクではないものの、かする音がしている感覚です。せめて問いの形にしないとね。
本投稿は、iitoco!のアドベントカレンダー2024に参加し、機会をえたものです。主催の江原さんに多謝!