岸本と安久都の往復書簡 #3の往

kishimoto
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この記事は、「岸本と安久都の往復書簡」と題し、同じ佐久市に住む安久都さんに宛てた、3往復目となる文章です。

安久都さんから前回もらった文章はこちらです。

「岸本と安久都の往復書簡 #2の復」https://torobibook.com/tsurezure/240128/

安久都さんへ

およそ月1回のやりとり、ということで始めて二ヵ月が経ち、3通目となりました。当然のことではありますが、新たにこうして書けるのも、安久都さんが手紙を返してくれるおかげです。

全6回の往復という一応の取り決めをしたので、これが前半最後になるわけですね。−−と、少し自分で自分に気負わせている気がしますが、それはそれとして受け止めながら書き始めたいと思います。

さて、早速本題に入りましょう。

まずは「寂しさってなんでしょう」ということから出た、葛藤について。

私からの前便(#2の往)で、寂しさを表現することは弱さの表出であり同時に弱さを良しとしない価値観を自分は持っている、対外的には弱さを尊重することとは裏腹に、のように言いました。このことを安久都さんは、強めの表現として感じたんですね。その通りで、自分の胸ぐらを掴むような気分だったと思います。

強めの表現になった理由として安久都さんは、対人支援の立場として、ある種の「ズレ」を抱えていることが被支援者に不誠実になると感じたからではないか、と私へと手を伸ばしてくれました。もったいない言葉。ただ私はそんな高尚な人間ではないようです。もっと我にまみれています。

自分のことを、統一されていて、シンプルで、ズレや矛盾のないものとして理解したい、認めたいだけなのだと思います。この「無ズレ自己欲求」(造語です、※1)が、現実で感じた自己のズレによって欲求不満状態になることで葛藤を生み、強い表現になったのだと思います。

※1 ちなみに心理学ではこの状態のことを「認知的不協和」と言うそうです。(勝手に造語ダメ。)

また安久都さんは「人が葛藤を抱える姿にこそ信頼を覚える」と言ってくれました。私を信頼してくれてありがとうございます。--そこまでは言ってないですね(笑)。

茶化しはさておき、葛藤する姿にどうして安久都さんは信頼を覚えてくれたのでしょう?あえてなぜなぜをしなくても、確かにそうだよなぁ、と経験上から理解することはできますが。

人が葛藤していることは〇〇であり、その〇〇の状態は安久都さんの△△という信頼の鍵穴(価値観や信条)にカチりとはまる。

これを埋めてみたいです。

例えば、〇〇には「放りだしていないこと」、△△には「自分と同じである」のように。書いたのはあくまで一例で、私から安久都さんがそう見えている訳ではありません。また安久都さんに自己を見つめてもらうためといった上から目線の問いのつもりでもありません。

単に、もっと安久都さんのことを知りたいとの思いからです。次便でなくても会ったときでも構わないので、いつか教えてくださいね。

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恐縮ながら話は連続しませんが、前回私から「作る」ということについて問いかけました。

私にとっての作ることは、父の存在を通した憧れであり、片や現実には苦手意識に繋がるものでもありました。また、多くはないながらも過去に作ったものには、作り手としての自分の手を離れていき、他者や自分自身にも作用する働きを感じることがありました。

安久都さんには、まず「作る」と「創る」の違いに気づいてくれました。確かに。私にとって、「作られたもの」は人(の主に生活)に役立つもの、「創られたもの」は人(の主に心)を動かすものという感覚が伴います。一方で共通して、人や他のものとは独立して指し示すことができる「かたち」があり、かつ人に役立つにせよ人を動かすにせよ人に「作用する」という意味があります。そのため、「作る」「創る」を一緒くたにし、ひとまず「作る」と表現してしまいました。ややこしいので、特にどちらかに限定しない場合は、「つくる」を使いたいと思います。

と分析しつつも、どこかで創るより作るが好きなのでしょう。作るは、身の丈にあった、手で掴める距離にある感覚がします。

さておき、安久都さんにとっての「つくる」こととして、自ら醤油をつくったことを教えてくれました。

スーパーなら、一瞬で、しかも数百円で手に入れることができる。しかし、1年という時間を待ち、また頻繁に面倒をみることで仕上がった醤油を味わうのは、さぞ格別だったろうと思います。

「我が子」と仕込み仲間の人は醤油(正確には醤油になる前の大豆)を表現したんですね。

子どもがいないので想像になってしまいますが、時間を費やして世話した醤油は、あたかも自分の一部が宿ったような感覚からそう表現されたのではないかと感じました。反対に、もしも「手間暇不要、誰が作ってもあの味になる!醤油づくりキット」なるものがあっても、それを我が子とはきっと表現しないでしょう。かき混ぜの仕方や頻度、日当たりの加減調整等が、自分がしたこととして、良い影響も良くない影響も取捨されずに醤油に練り込まれたんだという実感があるんだろうな、と思います。このことを安久都さんは「個人にべったりと紐づく」と表現していました。

加えて、想定通りの手順で、かつ期待した通りの醤油ができたというよりは、想定と期待から外れ、ときに作り手に驚きをもたらしたこともあったのではないかと想像します。自ら作ることでありながらも、このコントロールのし切れなさ、託すしかないような制約も、「我が子」と表現させたのではないか、こう考えました。

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そこで安久都さんが「つくる」について発見したこと。

「つくる」は愛おしさを生む営みなのではいか。

この便の後半は、この「愛おしさ」ということについて、向き合ってみることにします。

どうして、ラグビーボールみたいにファンブルしそうなことを選んで投げるんでしょう。--というのも、私にとっての「寂しい」と同様に、むしろそれ以上に「愛おしい」という表現をしたことは無いからです。

安久都さんは、愛や好きとは異なるものとして、愛おしさを取り上げました。

ちょうど一年ほど前、当時付き合っていた彼女(現在の妻)にプロポーズの手紙を書いていた時のことです。

途中で私の筆はぴたりと止まりました。「愛している」や「好き」という言葉を遣うことができなかったからです。愛していない訳でも好きじゃない訳でもないけど、これらは彼女を想う自らの気持ちに、どうもしっくりこなかったのです。おそらく数時間以上、止まりました。

ようやく不純物のないものとして見つけたのは、「大切に想っている」という言葉でした。

両腕で抱え込むような抱擁をしたし、情熱的なキスもした。ただ彼女への気持ちをそのままに表した行為は、数十秒かけて額にキスをしたときのことでした。この行為が、大切に想うという言葉と私の中で一致したのです。

この「大切に想う」という感情が、自分史上、最も「愛おしい」に近いと思います。

一方で、違いも分かります。前者には静的、普遍的なニュアンスが、後者には動的、断続的なニュアンスがあるように思います。安久都さんは、愛おしさのことを「心の奥の方にスゥっと入り込んでジュワっと広がる」と表現しましたね。

そう、愛おしさって、なんか動いている気がします。しかも勝手に。

もう少し愛おしさに迫りたいものの、愛おしさって何?と考えるだけではこれ以上近づけそうもありません。問いを変化させてみたいと思います。

愛おしさからかけ離れたものはどんな感情なんでしょうか。私にとっての愛おしさは、大切に想うことと近いものでした。そこで、次の問いを自らに投げかけてみました。

人をあるいはものを大切にできないとき、それはどんなときか。

思い出されたのは、前妻とのことです。

離婚を決める半年ほど前からだったと思いますが、前妻から「あなたのためにも離婚しよう」と持ちかけられていました。ただ、しばらく決められませんでした。二人の前に壁ができても一緒に乗り越えようと誓ったから。十年あまりの付き合いを経て結婚し、自分にはこの女性しかいはずだ。なんとかやり直せるはず、と。「別れる道」に足を踏み入れようとしても、その道は先が見通せなかったのです。

そんな中で離婚を決めたのは、「あ、彼女を大切に扱えなくなってしまっている」という実感でした。ささいなことです。残業で遅くなるときに連絡をしないとか、彼女が横で楽しそうにしている時でもそれに乗らないとか。そう振る舞おうとしてそうした訳ではなく、そうすることが自らの心持ちにとって自然だったのです。

この「もう大切に扱えなくなってしまった」という心持ちに気が付いたとき、別れようと腹が決まりました。関係を続ける側の道が、より見通せなくなったのです。

この実感は、安久都さんの愛おしさの表現とは逆、つまり「今まで自分の中にあったものが、シューと抜け出ていた」ような比喩で表すことができるかもしれません。

大切に扱えなくなったときには、何が抜け出たんでしょうか。反対に愛おしく感じるときには、何が入り込んで来ているんでしょう?

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「責任」が入るのかもしれません。急に重たく硬い印象になります。

前回安久都さんは、サン=テグジュペリ『星の王子さま』のから次の文章を引用していました。

きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある……

また、マルティン・ブーバー『我と汝』(野口訳)でも、責任という言葉が使われています。

そのときひとは、相手を助け、いやし、高め、教え、救う。かくて愛は<なんじ>にたいする<われ>の責任となるのである。

2つともが、人はなつかせた相手へ、絆を結んだ相手へ、愛する相手へ、大切に想う相手へ、責任が生じるというのです。

他方で2つともが残念ながら、この責任ということをあまり説明してくれていません。

正直、なぜ責任が生じるのか、私には今ほとんど理解できていません。ただ少なくとも、婚姻制度等のいわゆる社会的な責任を果たすという意味での責任とは、異なる責任を両著が言っているのは分かります。第三者が介在しない、自分と相手の1対1の関係における責任を言っています。また人と人に限らず、安久都さんと手作りの醤油のような、人とものとの関係も含んでいるでしょう。

何かを愛おしく思ったとき、責任が自分の中に入り込んできている。

このことが正しいかどうかは分かりません。なので一旦これが正しいとしたときに、責任がどういう様相をしているかをみてみることにします。

まず、1対1の関係性は本来は一時的なものです。ある場で初対面の人と打ち解けたとしても、その場が終われば関係も終わってしまうことは少なくありません。ただし、愛おしく思っている相手とは、この先も今の関係性を維持していたい、あるいはもっと深めたい、と我々は希望します。

関係性を維持するには、2人の間でのやり取り、相互作用をし続ける必要があります。さらに言えば、我々の期待するような特別な関係であれば、「自分のためだけではなく、相手のために」というような言動が必要となるでしょう。4本しかトゲをもっていないバラを世話するために自分の星へと戻る、小さな王子のように。

責任は、英語でresponsiblity。語源をたどると、<約束を返すことができる>という解釈があるようです(引用元)。「約束」とは関係し続けることと言えるでしょうか。そして大事なのは「返す」という動きであり、また「できる」という動きに備えた状態だと思います。

こう考えると、愛おしい相手との特別な関係を今の瞬間だけではなくこの先も維持してたい、維持するためには相手のためにする言動が必要となる、その言動の準備段階として内に宿る感情、それが責任なのではないでしょうか。責任は、関係を維持したいと願う相手のための言動を、しかるべき未来に実現するため、放たれる前の弾のようなものとして自らの内部に自発的に生じたものなのではないでしょうか。

この責任は、一般的な責任、すなわち立場や役割によって第三者から課されたやるべきこと、のように重く硬いものではなくなります。対照的にこの責任は、愛おしさから、またできるならこの愛おしさを保ちたいという思いから、ポッと自らのうちに生じる綿毛のようなものに感じます。

かなり強引ですが、責任をこのように捉え直してみたとき、責任はもはや愛おしさと同義、愛おしさの言い替えと言ってもいいのかもしれません。

もう1つ。特別な関係を維持するには相手のための言動が必要と言いました。しかしできない時があります。そういう時であっても、この意味の責任を抱いてさえいれば、関係は維持されるのではないでしょうか。自分で言っておいて矛盾を感じます。しかし、そうでもあるともし捉えないならば、もう何十年も連絡を取ってない友人や、この世から去ってしまった人との関係はすでに無いものになってしまいます。一方で我々の実感として、彼らとの関係性は続いています。あいつは今ごろ元気でやっているんだろうか。あの時ひと声かければよかったかもしれない。あの人との無言の約束を果たせているんだろうか。このような思いが巡ることがあります。そこで、これらの思いも責任と呼んでいいなら、言動が果たされないとしても自らの内に責任という感情がある限り、人は相手との特別な関係を確かめることはできる、と言えるのかもしれません。

--これまたかなり潜ってしまいました。

話を戻すと、彼女へのプロポーズの手紙で「あなたを大切に想う」と言ったとき、ジュワッと入り込んできたのは、関係を深めたいという責任。前妻を大切に扱えなくなり離婚を決意したとき、もう関係を維持しなくてもよい、とシューっと抜け出ていったのも責任。

こうやって責任を当てはめても、やはりまだ硬い感じがありますね。ただ、責任という言葉が持つガチガチとしてテコでも動かせないような印象が、若干ながら角が取れて神出鬼没な印象へと少しばかり変化しているような気がしています。

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「つくる」ことは愛おしさを生む営みでもある。そして「愛おしさ」には責任がある。ただしこの「責任」は、人あるいはものとの関係を維持したい、深めたいという願いに似た感情とも言うことができる。ざっくりですがこのように辿ってきました。

再び「つくる」に目を向けてみます。

つくるにおける、「つくりつつあるもの」あるいは「つくったもの」について語ってきました。しかしこれではまだ「つくること」の全てを捉えてないように思うのです。

それは、つくることの起点にある「つくりはじめる」こと(あるいは関係を築きだすこと)についてです。

高校数学で習った数学的帰納法でいうところの、nからn+1へのドミノ倒しはできることが分かっても、倒し始めるn=1のドミノを手にしていないような感覚です。

しつこい性質でなんかすみません(笑)。自覚もありますし、先日兄に「僕(岸本)の良いところって何?」と聞いたら、「執着がすごい」という言葉が返ってきたので、思い込みだけでもないようです。

つくりはじめること

についてもう少し安久都さんと語らせてください。

P.S.  今月からピアノ教室に習い始めました。人生初ピアノです。どうしても弾きたい曲があって。練習曲を弾けたとき、先生がテキストに書いてくれた「花マル」に年甲斐もなくよろこびました。あれは花びらの部分がミソですね。

2024/2/13 岸本直樹

プロフィール

岸本 直樹 

1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。20年「あなたとパートナーの性についての分析 rebed β版」をリリース。21年 東芝エネルギーシステムズを退職し、活動に専念。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。性科学・家族心理学を勉強中。愛知県出身、23年春に現在の妻と川崎から長野県佐久市に移住。

あくつさとし_安久都 智史

1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。

https://note.com/sa_akutsu

@kishimoto
あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを作っています。www.comwis.co.jp