岸本と安久都の往復書簡 #4の往

kishimoto
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この記事は、「岸本と安久都の往復書簡」と題し、同じ佐久市に住む安久都さんに宛てた文章です。安久都さんから前回頂いた文章はこちら。https://torobibook.com/tsurezure/290/

安久都さんへ

まず、返事を出すのが遅れてしまったこと、お詫びしなければなりません。安久都さんからの便を頂いてから2ヵ月を経過させてしまいました。なぜ書けなかったのでしょう。安久都さんの便を受け取るまでに時間がかかったから、まぁ自分も。。という思いが前半の1ヵ月にあったことを否定しません。しかし1ヵ月が経過した後に「さぁ」と筆を執ってもどう安久都さんに応えたらいいのか、と何度も筆を置くことを繰り返しました。実は今これも筆を執りなおして4回目くらいなんです。

前回、安久都さんは飛びました。

僕たちはお手紙を通して「自分と他者」または「自分とモノ」、「自分と世界」のあいだにある動的な関係性を考えてきたのだと思います。そして、この関係性に「愛おしさ」や「責任」という名前を与えてみた。

それは、僕たちはこの世界すべてに「愛おしさ」や「責任」を抱くことができる、という可能性になるのではないでしょうか。 

(「本書簡#3の復」より。マーカー岸本追加)

安久都さんは地に足を付けようとしたものの、タイムオーバーと言ったらいいのか、ご自身と私との間に続きを委ねたと言ったらいいのか、一旦宙に浮かせたままで筆を置きましたね。安久都さんが何を感じているか、何を言おうとしているかまだ分かっていません。またそれが大事なことなのかどうか、兆しのようなものも感じられていません。それでも、視界の端に閃光のように捉えたであろう、安久都さんが感じた経験そのものを私は疑うことができません。その安久都さんの感覚を頼りにして、書き進めたいと思っています。


最初に「動的」とはどういうことでしょうか。1からアプローチを試みようと思います。安久都さんと私とが動的という言葉をつかうとき、まず単にモノが動いたり、人の感情が変化したり、つまり時間的な変化だけを指しているわけではなさそうです。方程式で運動を記述できたり、ワッ!と言うと人が驚く等、時間的な推移や結果が予測可能なことを、動的だとはあまり言いません。

では、予測できない動きであれば動的と言えるのでしょうか。サイコロを振った時にどの目が出るかだったり、牛乳を顕微鏡で覗いたときのたんぱく質分子の不規則なブラウン運動(ちょっとマニアック)は、予測はできません。しかし、ランダムや確率というある意味の法則に則っており、この場合も我々の捉えてみたいところの動的とはまだ異なると思います。

つまり、「推移や結果を予測できず、法則性も認められない動き」を動的と言って、ひとまずよいでしょうか。このように考えると、いわゆる科学の取り扱う対象からは外れることになります。科学それ自体が、物事の推移や結果を予測したり、何らかの法則性を見つけようとする営みだからです。動的なものとして残るのは、生命でしょうか。ただ、生命であっても生命の発生、遺伝、生理等はまだ科学の領域です。こうして辿ってくると、生命の意識、意志、選択、行動等といったことが動的なものとして浮かびあがってきます。これらは予測できません。心理学を使っても事後的に統計的な傾向が見えるくらいです。

一歩戻ってこうも思います。この5月の時期、木々が青々と生い茂っていく勢いに我々は驚いたり感動する。この木々の活動は動的ではないのか? 木々の芽生えや成長のメカニズムを我々は知っています。このメカニズム自体が動的だとはあまり感じません。しかし、日々視界に入ってくる木々の勢いは動的です。なぜでしょうか。

ここまで少し思い違いをしていたのかもしれません。「何が」動的かそうでないのか、ばかりに目をやっていました。ひょっとしたら問題なのは、「私にとって」木々の勢いが動的なのかどうか、なのではないでしょうか。つまり、動的という性質が対象に宿っている訳ではない。そうではなくて、私という主観が発する眼差しによって、我々と対象の「間」で動的という感覚が生じる、という見方がひょっとしたら真実に近いのではないでしょうか。

動的である(と感じること)に欠かせないものを、この話の最後にもう少し挙げてみたいと思います。1つは時間あるいは記憶の積み重なり、もう1つは驚嘆の体験です。

この季節の木々の生い茂りを見るとき、我々はかつて冬の時期に枝だけだった姿の記憶を、またある春の日に木の芽が顔を出した記憶を、目前の木々の姿に重ねているのだと思います。単なる時間的な変化ではなく、木々について主観がもつ数々の記憶が、目の前の木々に今重ねられているような状況です。

次に、木々の生い茂る様に驚嘆するとはどんな体験なのでしょうか。例えば木々についての数々の記憶を使って今の姿をイメージしたり外挿することを何となく行っているとします。もし目の前の木々がそれらの予想のイメージや外挿した姿の範疇に留まっているとき、おそらく驚嘆することはないでしょう。驚嘆の体験には、記憶からのイメージや外挿だけでは足らない、不連続さの要素があるのではないでしょうか。不連続さは、例えば5cmくらい伸びているとイメージしていたのが実際は10㎝伸びていたというような、量的で連続的な変化とは異なります。そうではなくて、かつて木々の奥に見えた遠くの景色がある日を境に葉の茂りによって目に入らなくなった、というような質的に不連続な変化、その変化への驚嘆の体験が動的であることに必要な要素なのではないでしょうか。

動的であること。まず推移や結果を予測できず法則性もないこととして、生命の意識、行動等を挙げてみました。ですが一歩立ち戻り、動的であることは対象に備わる性質というよりも、むしろ我々と対象との間で生じるものであり、我々の主観の関与が欠かせないのではないか?という問題(仮説?)が入り込みました。そして、対象についての我々の数々の記憶が目前の対象の姿に重ねられること、あるときに不連続な驚嘆の体験をすること、この2つが動的(と感じること)に不可欠なのではないだろうか。動的とはどういうことなのか、私なりに近づけたような気がします。

ここまで書いた今、気づいてしまったことを白状します。当初安久都さんの前便を読んで、動的って一体どういうことなんだ??と頭がグルグルしたため、今回そもそも論から考えてみました。特に上で書いた、個的な対象に備わる性質というより、主観と対象との間(=関係)で生じるものというのは、私にとって率直に新しい気づきでした。しかし、あらためて安久都さんの前便を読み返すと、「動的な関係性」という言葉が既につかわれていることに気付きました。。遠回りに付き合わせてしまったこと、ご容赦ください。自ら考えてみたから目に入るようになった、とでも私に言わせておいてください(笑)。


さて、安久都さんは「この世界すべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか」と言いました。後半はこの「世界すべて」というときの世界をどう捉えたらいいのかに迫ってみたいと思います。もちろん、安久都さん自身はラブ&ピースではないと言っていたように、ありとあらゆるものを無条件で愛おしい、というのは私としてもあまり信頼できません。無条件という言葉を用いましたが、では反対にある条件が成立する限りで愛おしいと言ってしまうと、どこか上から目線、というか何かをこぼしてしまいそうです。

いずれにしても、安久都さんの言う「世界すべて」は紛れもない全てなのだと思っています。一旦腰を落ち着けるために、世界全てに愛おしさや責任を感じるための、「トリガー(引き金)」があるのかもしれないとひとまず表現しておく方がよい気がします。きっかけと言ってもいいかもしれません。今から向き合ってみたいのは、トリガーが何かではまだなく、すべてに愛おしさ等を感じ始めるというトリガーを備えた「世界」とはどんなあり様をした世界なのだろうか。という問いです。

前回の便で安久都さんは、世界のあり様はひょっとしたらこういうことかもしれない、というヒントのようなこととして、「影と自分」、「現実の世界が、唯一可能な世界ではなく、無数の可能な世界の中の一つ」、「異界が、人の生きる世界に近々と重なって存在している世界」というような3つの視点を引かれました。3つのどれも二重性があります。またいずれにも、”影”、”無数の可能な世界”、”異界”という、一般に存在しないとされる世界が登場します。さらに、二重=対になっている世界(影と自分、等)は、それぞれが独立したものではなく、相互作用しあっているようです。

ここで対峙してみたいのは、2つ目に挙げた、一般には存在しないとされる世界(影、無数の可能な世界、異界)についです。いやいやスピリチュアルなことだ、と付してしまえばそこで話が終わってしまうことでもあります。しかし、観測可能で再現できること、すなわち科学の網に引っかかることだけがこの世界の全てだ、と私には言いきることができません。

さて、どこからこの世界に踏み入りましょうか(笑)。まず、これら一般に存在しないとされる世界を描いた人は、思考で描いたのではないと思います。思考ではなくて経験したことを「影、無数の可能な世界、異界」という言葉に置き換えたのだと思います。言葉に託したと言ってもいいかもしれません。また経験したといっても、例えば影と取っ組み合いのケンカをしたとか、異界の地を駆け巡ったとか、物理的な経験をした訳ではないと思います。意識の上で「知覚」の経験をしたのだと思います。自分の影としか言いようのないものからの声が聞こえてきた(ような気がした)とか、現実世界では絶対ありえない光景が目に飛び込んできた(ように感じた)とかです。

知覚について、およそ100年前のフランス哲学者アンリ・ベルクソンは、次のような説明を試みました。

(前略)わたしの見るところ、わたしの知覚は感覚的と呼ばれる神経刺激のあらゆる細部を追跡しているように思われる。(中略)これらの神経刺激の役割はただ一つ、わたしの周りに存在する諸物体に対するわたしの身体の反応を準備し、わたしの可能的行動の輪郭を描くということだけである。

(アンリ・ベルクソン『物質と記憶』(竹内信夫訳)より。マーカー岸本追加)

例えば日常生活において、電車内で隣の人が小刻みに震えていて何か様子がおかしいことを目や耳で知覚したとします。その知覚は、例えばその隣の人が泣き出した時に心の中で声をかけてあげるための準備として、あるいは隣の人が急に周囲に危害を及ぼし始めた場合に自らの身や自らよりも弱い人を護るための準備としての役割を果たしている、こんなように解釈しています。

話を少し戻すと、”存在しないとされる側”の世界を知覚することは、”存在する側”の世界の中で行動するための準備的な働きである、と言うことができるのかもしれません。つまり、存在しないとされる世界が本当にあるかどうか、を問うことは今は重要ではないということです。焦点を合わせた方がいいのは、そういった世界を知覚した上での、存在する世界(現実)における行動ではないかと思うのです。ちなみに、行動という言葉は私にとって少し強い言葉です。許されるなら、「態度」「ふるまい」くらいに言い替えた方が落ち着けます。

自らの影を感じ取った者が現実でどういう態度をとったのか、無数の可能な世界を胸に抱いた者が現実でどうふるまったのか。そこに目をやるべきだと思うのです。ここまでとても長くなってしまいました。ただこのような視点ももつことで、存在しないとされる世界という、一歩踏み外せば奈落の底に落ちるかもしれないほどの狭い尾根を歩くための、私なりの鎖を設置することができたように思います。

さて、(たぶん)安全な鎖を設置できたところで、踏み込んでみたいと思います。今一度話の流れを整理しておくと、「この世界すべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか」という安久都さんの直感がスタートでした。次に、では世界全てという時の「世界」はどんなあり様をしているのか、という問いが生じました。この問いに対する道標として、”影、無数の可能な世界、異界”という一般に存在しないとされる世界の話を安久都さんは置いていきました。そこで、ある意味危険なその世界に近づくために必要な鎖を設置してみた、という流れです。

試みたいことは、存在しないとされる世界が織り込まれているような世界とはどういう世界なのか、という問いに応えることです。そこに手が掛けられれば、「世界全てに」という安久都さんのジャンプを着地させられるかも?あるいはこの問いへの応え単独では無理でも、着地に必要なクッションの1つにはなるのでは?という思いから、ここまで歩いてきました。

これから、「存在しないとされる世界を知覚しながら現実の世界で生きるということ、それはどういうことなのか」を考えてみることにします。これに応えることによって、繰り返しになりますが、世界全てと言うときの世界のあり様に近づけるのではと思うからです。というよりむしろ私にとってはこう問うしか手がないのです。

私の両親は信仰をもっています。両祖母から受け継がれてきた信仰です。私自身はその信仰をもつには至っていません。若いころ私は、信仰を否定してきました。でもいつからか信仰をもつ両親を、また信仰をもつ人を否定することはなくなりました。豪雨災害の被災者もとへと半身が水に浸かりながら向かった姿、4人の子供を食わせ学費を賄うために朝から晩まで何十年も身を粉にして働いてきた手、そして今70歳を過ぎてから大学で学ぼうとする二人の視線は、信仰心が源泉となっていることに気付いたからです。信仰がなくてもこれらができる人々も当然いることでしょう。ただ両親に関して言えば、信仰がこれらを可能にしたことに彼らを知る人はきっと異論をはさまないと思うのです。

両親が信仰によって、存在しないとされる世界を知覚しているのかどうか、まだ聞いてみたことはありません。少々強引ですが、彼らがそんな世界を知覚していると仮定させてください。すると、その知覚はどんな働きをしているのでしょうか。知覚なしでは成し得ないふるまいへと最終的には至るのだと思いますが、知覚が即座にふるまいにはなっていないはずです。もう少し解像度を上げてみることにしましょう。

ひょっとすると、存在しないとされる世界は、彼らが急峻な困難の山を登るときの「足掛かり」なのではないでしょうか。また足掛かりを知覚するということは、全体重をそこに載せてもいいものとして見えている、もっと言うと、既に全体重をかけていてその足掛かりからの反作用(※1)を直に感じているとまで言ってよいのかもしれません。これはもちろん意識の上でのことです。意識の上で、現実には何の足掛かりもない困難の山がある、登ろうとして足を踏み出せば重力によって落下してしまう。しかし、存在しないとされる世界の知覚、すなわち足掛かりからの反作用を我が身に受けている(と感じる)ことで、重力とつり合ってその場に留まることができる、また次の足を持ち上げることができる。このように言えるのかもしれません。

※1 反作用とは

物体に働くある作用に対して、同じ大きさで反対方向に働く作用。(goo辞書より)

ここまで来ると、いよいよ私も浮き上がりそうになってきてますね(笑)。なんとか踏みとどまりたいと思います。問いに戻ると、「存在しないとされる世界を知覚しながら現実の世界で生きるということ、それはどういうことなのか」でした。この問いに対する私なりの回答は、意識上の足掛かりからの反作用を身に受けながら、現実に留まり続けるあるいは現実で歩を進めるということ、です。


今回、前半では愛おしさや責任という関係性において切っても切れない「動的」という性質を、後半では一般に存在しないとされる世界が織り込まれた「世界」のあり様を、思うままに(、ところどころ強引に)書き連ねました。

さて、安久都さんの直感「この世界すべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか」に近づくことができたでのでしょうか?むしろ訊くべきはこうですね。安久都さんが一旦この言葉を当てはめる元になった「生」の直感に、近づくことができたのでしょうか?

私には、今その実感はまだありません(苦笑)。幸いにも、この書簡はあと2.5往復あるので、じっくり付き合っていきましょうかね。といいつつも、安久都さんの飛ぶ姿をもう二度三度、見てみたくも思います。

2024/5/31  岸本直樹

追伸その1 私の小さなキャパにより今回の便では触れることができませんでしたが、安久都さんが前便に書いてくれた「人を信頼する鍵」についてのお応え、また「抗うためにつくりはじめる」とのお応え、しかと受け取り、私の内で動いています。お会いした際にでもまた話させてください。

追伸その2 題字をノリで書いてみました。文章以外のテイストが混ざることも悪くないかなと思いまして。使わなくてOKです。

プロフィール

岸本 直樹 

1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。20年「あなたとパートナーの性についての分析 rebed β版」をリリース。21年 東芝エネルギーシステムズを退職し、活動に専念。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。性科学・家族心理学を勉強中。愛知県出身、23年春に現在の妻と川崎から長野県佐久市に移住。

あくつさとし_安久都 智史

1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。

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@kishimoto
あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを作っています。www.comwis.co.jp