この記事は、「岸本と安久都の往復書簡」と題し、同じ佐久市に住む安久都さんに宛てた、2往復目となる文章です。安久都さんから前回もらった文章はこちらです。
「岸本と安久都の往復書簡 #1の復」https://torobibook.com/tsurezure/231224/
安久都さんへ
明けましておめでとうございます。
これを書いている時点では、普段顔を合わせるコワーキングオフィスではまだ会えていないので、この文章が明けましてのご挨拶になりそうです。
我々が住む佐久の冬は、これから1月、2月とまさに本番を控えていますが、12月には最低気温が氷点下7℃、氷点下8℃・・・と日に日に下がっていくという、重度の寒がりでありこちらの冬を初めて体験する私にとっては恐々たる日々でした。
年末のとある日、妻と冷やかし御免で駅前の住宅展示場へ行った折のことです。”高断熱高気密な家はエアコン一台で家全体が暖まる!”を体験してしまった我々は、「正月三が日限定、なんちゃって全館空調キャンペーン」を開催しました(なんちゃってというのは、今住む家は築20年というところで、そもそも全館空調に耐えられる仕様ではないからです)。なぜ開催に至ったかというと、ここ最近は節約マインドから暖房付けるのはひと部屋にして、そこで二人で過ごすように心がけているんですね。すると、物理的距離が近いから心理的距離まで近くなりすぎてしまうのか、ちょっと一人になりたいというときに、同じ空間に居続けるのってなんか窮屈だなって感じてしまって。それもお互いに。なので、正月3日間だけは家の内ドアを全て開け放ちましょうと、贅沢に暖房使っちゃいましょうと、結託しまして。結果として、二人の間にイイ感じの距離感ができたと思います。三が日が過ぎた再び節約モードですが(笑)。
エロティシズムは相手との分離を要求する。言い換えれば、エロティシズムは自分自身と他者とのあいだの空間で花開くのだ。愛する人との熱い関係を保つには、この空隙と、その不安のとばりに耐える能力が必要となる。
米セックスセラピストのエステル・ペレル氏は著書「セックスレスは罪ですか?」でこのように言います。心理的距離を保つために、今回私と妻は大した頭を使わずに空間的な距離を空けるという手段を取ってしまいました。ただし、もう少し知恵を働かせれば、二者関係に他者を絡めてみる、お互いの未知の面を開示しあってみる、等の物理的手段によらずに心理的な空隙をつくる方法もありそうなものです。
これは、安久都さんが前回のお便り(#1の復)言ってくれた、ジンメルの物事における<分離>と<結合>との両義性という視点とも、通じているのかもしれません。人と人が親密になる(結合する)には、同時に空隙(分離)も必要だ、というように。
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さて、前回の最後で安久都さんからの「寂しさについて」という置き土産、しかと受け取りました。
寂しさについて安久都さんは、夕焼けに闇が近づいてくるときだったり、人に蔑ろにされたり、あるいは人との間で平行線をたどるときだったりに感じると言いました。
安久都さんの書かれた文章全体を反芻してみたとき、そこには「熱・温かさ・血・燃える」というような言葉の集まりと、それらとは対照的に「冷たさ・冷え・震える」という言葉たちが使われていると感じました。便宜上、前者を<熱>、後者を<冷>と呼ぶことにします。きっと安久都さんは<熱>が好きなんだな、と感じます。
そこで、じゃあ寂しさの感覚は安久都さんにとって<熱>と<冷>のどちらになるんだろう、と考えてみました。が、どちらにも入らないような気がするのです。
一般的に、寂しさは<冷>の側に入るのではないかと思います。ただ、自身の根幹には寂しさというキーワードが潜んでいる、あるいは人間という存在の土台にも寂しさが太く結びついている気がする、とまで表現する安久都さんにおいては、そう簡単にはどちらにも割り振ることができないことに気が付きます。
手前勝手な推論を始めた私に「うん、うん、そんで?」と頷いてくれているだろう安久都さんに、もう少し甘えて進めることします。
<熱>から<冷>に移行していくときの「温度センサー」のような働きを、寂しさという感覚が担っているのではないでしょうか。
「陽に照らされていたけど闇が近づいていますよ」、あるいは「人と言葉を重ねてきたけど実際遠ざかってますよ」、等と安久都さんにお知らせするような役割を、寂しさという感覚が担っているのではないでしょうか。
そして、もう1つ気が付いたことがあります。さきほど私は、きっと安久都さんは<熱>が好きなんだろう、と言いました。じゃあ<冷>は嫌っているのか?避けたいことなのか? ーそうでもないのでは、というのが暫定的な私の考えです。
夕焼けに闇が忍び寄るときの寂しさの中には、なんだか気持ちいい感覚だったり世界に溶け出す感覚があると安久都さんは言いました。もしも闇を嫌っているならば、これらの感覚を抱くことはないと思うのです。
独走は一旦ここらへんで止めておこうと思います。ただ、少なくとも安久都さんは、<熱>が好きとか<冷>が嫌いとかの簡単な対立ではなく、安久都さんにとっては<熱>と<冷>どちらも必要であって、加えて自らをとりまく世界においても両者が欠かせないことを見出そうとしているのではないか。このような考えが私の中を巡った次第です。
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ここまで、「寂しさ」ということについて、安全な観察者の場所から、安久都さんを観察対象のようにして語ってしまいました。悪い癖です。
というのも、寂しさは私にとって遠くにあるからでしょう。遠いといっても、寂しさを感じないほど満たされまくっている、ということではありません。ご存じの通り、賑々しい日々を過ごしている訳でもありませんから。しかし、寂しいという感覚を抱いたことはあるはずです。おそらく、私の寂しさから遠いというのは、寂しいという感情の表現をしてこなかった、寂しいという言葉を遣ってこなかった、つまり寂しさを見て見ぬふりしてきた、と言ってもいいのではないかと思います。
「岸本さんに、寂しさについて投げかけたら何か面白いことが起こるのではないか?」という安久都さんの目論見がもしもあったなら、2ベースヒット以上を打ちましたね(笑)。(以上、というのはホームランになるかもしれないけど、現時点ではどこまで飛ぶのか分からないということです)
話を戻します。とはいえ、寂しいと感じたであろう経験を、幼少期から思い出してみました。いくつかはあります。小学校からの帰宅時や夜ごはんの後のいわゆる団らんの時間に、忙しくしている両親がほとんど家に居なかったとき。自らが部長だった中学のバスケ部で、能力はあるのにサボりがちなメンバーを引き込めなかったとき。感動した思いを伝え、理解してくれるはずの仲間が、声をかけられる距離に居なかったとき。セックスの相手の視線が私を通り越して、天井を見つめていたとき。
私の感じる寂しさに共通するのは、まず人であり、同時に人の不在が関係しているようです。また、単なる人の不在だけではなく、そこに人が居たら何か良いことが起こるだろうという想像を具体的に膨らましている。この想像から、”人が居ないからそれは起こらないこと”を引き算した現実のありよう、つまり期待と現実の「スキマ」に寂しさを感じてきたということだと思います。
言い換えると、人との間の<熱>の状態を想像し胸を躍らせているけれども、起こらない<冷>という現実を突きつけられている。その距離に私は寂しさを感じてきた、ということになるでしょうか。
かたや、このことと、さきほど書いた「私にとっての寂しさは遠いところにある」こととは、ちょっと違う話になるのでしょう。頭からひねり出して思い出す作業をしないと、寂しさという言葉に近づけません。ただし、なぜ遠いのか?という問いはしないことにします。理由はいくつか挙げられそうですが、それらの理由・原因にはあまり価値がないように感じるからです。原因→結果の図式にあてはめて閉じるべきではないとも感じるからです。
なぜ遠いのかと問う代わりに、こういう問いを立ててみました。
「反対に、寂しさへと近づいたら何が起こるか?例えば、寂しいなぁと表現し始めたらどうなるか?」
上に挙げたような、過去あった出来事が再現したとしたとき、「寂しい・・」と声に出してみるとします。まず感じるのは、寂しいと言った自分の声は、寂しさを自分とともに引き起こした相手に対し、どこか訴えかけるようなトーンが含まれているということです。私のこの気持ちを何とかしてくれ、というような。加えて、というよりおそらく源を同じくする思いとして、自分がその相手よりも弱い存在、庇護されるべき存在であることを自ら認めてしまうようなトーンを感じます。
このことは、人に何かを訴え求めたり弱さをさらけ出したりすることは、取るべきでない手段として、私の社会的な生存戦略の札のようなものとして高い位置に掛かっているためでしょう。
このように、私にとって寂しさを表現することは弱さの表出であり、そこから浮き彫りになるのは、弱さを良しとしない価値観を持っているということです。一方で、弱い存在や打ちひしがれている人こそ手を差し伸べられるべき、等と時に胸を張って言うこともあるわけですが、善人の面の皮をかぶったライオンですね。いくら頭はではそう考えていたとしても、弱さを否定する価値観は、人の持つ弱さは認めないぞという牙を心の中に隠しているわけですから。
「寂しさ」という、今まで私があまり扱ったことのない問いを置いてくれたこと、多謝です。貧弱だった、寂しさという言葉のネットワークに、弱さという言葉が付け加わりました。そして、善人であるにせよライオンであるにせよ、少なくとも何かの面の皮をかぶったまま生きることはしたくありません。
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さて、今回はこのように(寂しさというお題について)内的に「考える」ことを中心にしてみました。そして今私は、「作る」ということについて、安久都さんと額をぶつけ合ってみたいと思っています。
物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。
これは、日本で最初に独創的な哲学体系を立てたと言われる西田幾多郎の論文「絶対矛盾的自己同一」からの引用です。
人によって作られたものは、作った人の手から離れて人に働き、その働きによって人はまた別のものを作っていく、のように解釈しています。また、「もの」とは物理的な物体に限らず、この種の文章や、音楽、写真といったものを含めて「かたち」になったものも含めていると捉えています。
私はというと、「作る」ことへの憧れをもつと同時に、苦手意識を持っています。憧れは、母子家庭で育ち中学生の頃に家の風呂を自らの手で作ったという私の父からの影響が大きいと思います。苦手とは、考えるまではいいとして外に出すことに逡巡したり、作り始めたとしてもどこかツメが甘い面を自覚しているからでしょう。
数年前にセックスレス対策として作った「rebed」というWebサイトがあります。やはりツメは甘いものの、自分の手を離れ、使ってくれた人や自分自身にも作用した「かたち」なんだということをたしかに実感します。その後、いくつかサービスを作っていますが、恥ずかしながら、これを超えるような実感は未だに持てていません。
安久都さんは、「作る」ということについてどんな実感を持っているでしょうか?
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昨日、夕方の陽がずいぶん伸びたことに気が付きました。とはいっても、先日はここ佐久でも数センチの積雪があり、寒さに身を縮める日はあと二ヵ月ほどは続きそうです。体調と車の運転にはお互い気を付けていきましょう。
2024/1/10 岸本直樹
プロフィール
岸本 直樹
1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。20年「あなたとパートナーの性についての分析 rebed β版」をリリース。21年 東芝エネルギーシステムズを退職し、活動に専念。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。性科学・家族心理学を勉強中。愛知県出身、23年春に現在の妻と川崎から長野県佐久市に移住。
あくつさとし_安久都 智史
1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。