良く作ることについて

kishimoto
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安久都さんとの往復書簡(#2の復)で、安久都さんから問いかけられ、気になりながらも私からの次便では返せなかったタイトルのことについて、書簡の「脇道」という位置づけで向き合ってみました。

友からの文章に「あなたは何かを作ろうとするとき、良く作ろうとしているのかもしれない」という旨の言葉があった。しばらく引っかかっている。

良く作ろうとして作ったものは、強靭だが人に有無を言わせない働きがある。良くできたと実感を伴うことはあるがその実感が続くことはほぼ無い。

 かたや、この実感が続くことが稀にある。正確には、作る最中に「良いものになるに違いない」という根拠のない確信があり、完成した時には「何とか形になった」であり、そうして出来たものは一部の人を突き動かす働きがあって、この働きが再び自分に転じた「やりがいがあった」という感触だ。

 この感触を長く感じていたいが、最初に根拠のない確信が必要になるようだ。それに備えるしか今はできそうにない。他にできそうなことは、立ち位置を替え、自らが突き動かされたことの表明によって、目前の人のやりがいを微かだが確実に増やせることかもしれない。

作ること(絵)

冒頭の友の言葉を私は、良く作れなくてもいい、ひいては良く生きなくてもいいのではないか、と受け止めている。しかし「良く」を除いてしまったら、何を頼りにすればいいのか。

 1年ほど前、妻の小物を置く棚を作った。物と物の30㎝の隙間にぴったりと収まる棚だ。完成した時から少しグラついているし、見た目も良くはない。しかし1年間、棚は彼女の役に立ち続けている。

 言えることは、ここには「棚と彼女」という一対の関係しかないということ。もう1つは、この棚には「隙間の場所で小物を置く」という機能以上の付加価値は無いということだ。

 かたやこれまで良く作ろうとしてきたとき、使う人以外の第三者を見ていなかったか、必要以上を付けたそうとしていなかったか。使う人だけを意識し、必要な働きだけを施すように作ってもいいのではないか。

 良く生きようとしたとき、自ら以外の他者を意識してなかったか、胸に光るバッジをやたら与えられようとしてこなかったか。自らのみに向き合い、言うなればその魂の渇きを満たすようにだけ生きてもいいのではないか。

 良く作ること、生きることは誤りではない。やりがい生み、やりがいの中に居ることだからだ。ただし我々は常にはそのように作れないし生きられない。そうであっても近くの者を見、近くの声を聞こうとすれば、しっかりと作り、生きることはできる、と友は気づかせてくれた。

@kishimoto
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