差し出された問い応える

kishimoto
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kishimotoさんが人の奥にみようとする「ほんとうのもの」ってどんな役割があると思いますか?いつか教えてくださいね。

数ヶ月前にある相談を受け、やりとりも終わりという段階で、このような質問を受けた。

ほんとうのものとは、引き絞られた弓矢のように、あるいは原子が静かに含んでいる質量エネルギーのように、見た目にはそうと分からず表にあらわれてないが、人の奥底に必ずあってその人だけが持つ固有の核のようなものだ。

それは例えば、何十年経っても捨てられないむしろ強くなる願いであったり、他者へ差し出されるのを待っている見返りを求めないホスピタリティであったり。

なぜ私は、人のほんとうのものを見ようとするのだろうか。探そうとするのだろうか。

人のほんとうのものが発揮されたとき、対する人の心をどれだけ動かすかを感じたいわけではない。またたくさんの人のほんとうのものが放たれたとき、どんな世界になるのかと未知に胸を躍らせるわけでもない。

星を見るのが好きだ。月はそこまででもない。恒星は自ら輝いている。気の遠くなるくらいかけ離れた場所で自らを燃やしている。私は「うつくしいな」と感じる。

人の奥にあるほんとうのものが発揮されるとき、放たれるとき、正確にいうとそれを想像するとき、星を見るように「うつくしいな」と思う。

ほんとうのものが発揮されていないとき、当人にとってそれは葛藤や取り払いたい闇として感じられるかもしれない。しかし目を細めれば、恒星が生まれる星雲のように光を蓄えていることに気付く。同等にうつくしいと思う。

すでに放たれていれば、ほんとうのものは目の前にいる人の心や世の中を動かす役割を担っているだろう。

未だ放たれていなければ、放たれるまでの準備であると同時に、それは当人が自らであり続けるための<錨>のような役割を担っているのではないだろうか。

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冒頭の質問とは別に、同じ人からもう1つの質問を受けた。

kishimotoさんご自身の奥にあるものに興味はありますか?そしてそれを見ることはできていますか?

兄が先日ある場で「naoki(私)は良くも悪くも執着がすごい、じぶんが納得しないものは決してやろうとしない」と言った。唸った。

執着とは”一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。”(goo辞書より)

私の心をXがとらえている。Xが私を納得させている。このXなるものが、私の奥にあるものと不可分な関係なのではないだろうか。

おそらくXは、人の切実な姿や切実さが積み重なったものだ。切実さが私の心をとらえ、私を納得させる。

前職の上司がいくら期待の声をかけてくれようとも私は動こうとしないときがあった。その上司が切実さの中でもがいているのを目にしたとき、何も考えず動いていた。

座禅を3年ほど続けている。マインドフルネスはやらない。多くの人の切実さの上に座禅があると思うからだ。

切実さは、真剣さ、ひたむきさ、あるいは真摯さと言い替えていいかもしれない。切実さは、何かに打ちひしがれているだけ、あるいは何かに熱中しているだけの状態ではない。「なんとかせんといかん」と手のひらを握りしめようとする思いを含んでいる。

私の奥にあるほんとうのもの。

それは切実さとがっぷり四つを組めることだろう。

そして自らの切実さがそこに加わったとき、「うつくしいな」ときっと思うはずだ。

注)この投稿は"iitoco!! Advent Calendar 2023"に参加し、「自分の夢や、やりたいことに関すること。」というテーマの元で書き綴ったものです。

主催の江原政文さん、機会をいただきありがとうございます。テーマとずれちゃったけどご容赦ね!

@kishimoto
あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを作っています。www.comwis.co.jp