この記事は、同じ佐久市に住む友人、安久都智史さんに宛てた文章です。安久都さんから先日もらった文章はこちら。https://torobibook.com/tsurezure/240628/
安久都さんへ
返事をいただきありがとうございました。私の文章を大事に受け取ってくれたことが直に伝わってくるようで、へばり着くようにして書いた甲斐がありました(笑)。4往復が終わり、これから5回目のやり取りになりますね。残り2往復、ですか。
数ヶ月ほど前から「書く講座」を受けていることはお話したことがあると思います。先日の講座では「手紙」について教わりました。その中で、「手紙の目的は何か」という視点がありました。この往復書簡の目的をふと考えてみたくなりました。私と安久都さんとでは目的は同じかもしれないし違うかもしれない。当初と今の目的は異なるかもしれません。でも、今、私が、安久都さんへとこの手紙を書く目的は何なのだろうか。これに応える前に、安久都さんの問いへ返答する訳にはいかないような気がしています。
動機と目的は異なることも教わりました。動機はこの書簡の第1回でお伝えしたように、この書簡を読んでくれた人が私の人となりを知る機会にしたい、というやや邪なものでした。この動機は着手としての役割は果たしましたが、今私は決してお気楽とは言えないこの文章をこの動機のために書いている訳ではありません。今この手紙を書く目的、安久都さんに読んでもらう目的・・・。キレイごとはいくらでも並べられそうです。ふたりでしか到達できない場所に向かうため。安久都さんの問いに応えるため・・・。
私にとっての目的。それは、安久都さんを媒介することで、まだ知らない自分に会いたい、見て見ぬフリをして素通りしている自分の両肩を掴んで語り掛けたいというものかもしれません。ずいぶん身勝手。どんだけ自分を好きなんだよ、岸本さんって話ですね(笑)。ただ自分を好きっていうのはちょっと違って、まだまだ自分を興味深く感じているというのが近いかもしれません。
この往復書簡でやり取りした主題を振り返ると、”愛おしいってなんですか?”、”寂しいってどういうことでしょう?”などと、私がどぎまぎするような質問を安久都さんは投げました。私の目的を叶えようとしてくれたようにも感じます。また、安久都さんは”この世界の全てに愛や責任を感じられる可能性があるかもしれない”という直感をヤ―!!と放り投げもしました。私はこれらの問いにできる限りで応えてみました。
では、まだ見ぬ自分と出会えたか、素通りしていた自分と語り合えたのか。半分イエス、半分はノーです。安久都さんの問いに応えてきた自分は、その顔は既に知っているものの、でも見たことのない表情をしながら懸命に踏ん張った、というような比喩が当てはまります。”こんな自分が居たんだ”という驚きの体験はまだしていないというのが事実です。
前回の手紙で新たな問いを投げてくれた時、安久都さんは(岸本に)「とってほしい、投げ返してほしいと思うようになりました。」と言いました。この”ほしい”の持つ我がままさと同じ響きをもって、新たな自分に会いたい、素通りしてきた自分に語り掛けたいと、今思っています。残り2往復でこれをできるかは分かりませんし、無理にとも思っていません。ただこの目的、この”ほしい、したい”に誠実でいることを胸に留め、書き進めようと思います。
前おきはこれくらいにして、前回から一週回って姿を変えた安久都さんの問い、
「目の前のあなたと本気で関わっていくことしか、僕たちはできないのかもしれない」(中略)「目の前のあなたと本気で関わっていく」とは、どういうことなのでしょう。
におそるおそる近づいてみることにします。
最初に2つのことが頭に浮かびました。1つ目は、この文章における「あなた」という言葉の使われ方。2つ目は、本気で関わる”しかできない”という限定性です。
”あなた”は一般に二人称代名詞です。ただ安久都さんの使いかたは、呼びかける”あなた”であり、固有名詞を明確に指す”あなた”だと思われます。もし”あなた”を、単に”人”に置き換えてしまうと、つまり「目の前の”人”と本気で関わっていく」としてしまうと、安久都さんにとって全く別の意味になってしまうはのではないでしょうか。
次に、そんな”あなた”となぜ、本気で関わること”しか”できないのでしょう。そうすることで何かの道が拓けるはずだから、ということでしょうか。きっとそんな意図はしていないでしょう。我々は、”あなた”と呼びかけうる相手と本気で関わってきた経験は無いでしょうか。もちろんあります。本気で関わったこともあれば、本気だったのか?と問われると声が小さくなってしまう関わり方もあります。いたって普通のことです。でも、本気で関わること”しか”できない、と安久都さんは言っている。ではコンスタントに100%本気で関わっていくということでしょうか。土台無理な話です。
・・・このように考えを巡らすと、真夏の暑さもあってか頭が沸騰しかけてきました(笑)。いま頭と書きましたが、ひょっとすると頭で捉えることではないのかもしれませんね。胸で、この”しかできない”の限定性を扱ってみたらどうなるのでしょうか。
”目の前のあなたと本気で関わっていくことしか、僕たちはできないのかもしれない”と安久都さんが直に声に出すのを想像し、それを胸で受け止めた時に感じるニュアンスは、「役割」や「持ち場」への信念のようなものです。
そしてこの役割、持ち場で思い出されたのは、『峠』(司馬遼太郎作)という、幕末期のある藩の家老、河井継之助の物語です。その藩は徳川幕府側(佐幕側)の藩でした。継之助は、徳川幕府が新政府の勢いに敗けることはとっくに分かっていた。しかし、藩としては幕府を裏切るようなことはできない。自らはその藩の家老を任されている。だからどれだけ新政府側が有利と分かっていても、戦いに敗けようとも、徳川幕府への義理を果たし、かつ藩を存続させなければならない、と。自らの役割、持ち場を全うした生き様が描かれた物語です。
”本気で関わることしかできない”は、他の選択肢がない・できないということではないでしょう。そうではなくて、本気で関わることこそが、第一にご自身の役割であり持ち場なのではないか、そんな直感を一瞬でも安久都さんは抱いたのではなかったでしょうか。
役割などと言うと、一般には目上の他者から与えられたものとして使われる言葉です。ただこの場合の役割とは、プラトンが「人生は魂の世話をすることである」と言ったように、安久都さんの魂(※1)が、「本気で関われ」と言っている、そのようにして気づく役割、持ち場を指しています。
※1 魂が少しスピリチュアルなイメージであれば、深いところの自分自身、あるいは安久都さんの言葉を借りれば、その人の「ドロっとした」部分。
ここまで、「目の前のあなたと本気で関わっていくことしか、僕たちはできないのかもしれない」と言った安久都さんの問いに部分的に応えることを試みました。1つ目は、”あなた”は呼びかけるあなたであり、具体的な固有名詞のあなたに向かっているということ。2つ目は、”しかできない”という限定性は、ドロっとした部分の安久都さんが自らに与えようとする役割、持ち場なのかもしれない、ということでした。
さて、残り3つの言葉にふれないわけにはいかないでしょう。「本気で」「関わる」「僕たち」です。連なった言葉(文章)を因数分解することが最良とは思っていません。ただ一語一語に、安久都さんの直感が宿っている気がするのです。
まず私は「僕たち」という言葉について、この後引き続き向き合ってみることにします。そして、前者の「本気で」「関わる」の2つは安久都さんにしれっと投げ返すことにします。ちょっと腹ぐろ、ちょっと意地悪なんですよね、私(笑)。一緒に畑で働いているとき、取っても取っても切りがない雑草に白目をむきそうになっている安久都さんをイメージしながら書いています。よろしくね!
身軽になったところで(笑)、さて、どうして「僕たち」なのでしょうか。なぜ本気で関わることしかできないのは、「僕」(=安久都さんだけ)ではないのでしょう。私(岸本)が入っているということでしょうか。おそらくイエスでしょう。ただ安久都さんと私だけではきっとない。かといってあらゆる全ての人という訳でもなれけば、似た思想や行動様式あるいは苦悩をもった人たち、と囲いをすることも意図してないでしょう。
以前の安久都さんの言葉――この世界のすべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか。――における「世界のすべて」と、今回の「僕たち」は等しい拡がりをもって使ったのではなかったのでしょうか、ひょっとすると。一旦そういうことにさせてもらって、再度、頭で考えるよりも、安久都さんが声に出してこれらの言葉を私に話しかけるのを、胸でキャッチしてみることにします。
ふと想起されたのは、世界のすべてや僕たちと言うときの、安心感あるいは期待感のニュアンスです。以前安久都さんは(この往復書簡とは)別の文章で、
いつか死ぬのに、なんで生きるんだろう。
という問いをずっと考えている、と言っていました。この問いで私が感じたことは、”安久都さん”と”安久都さん以外の人やモノ”との間の距離の遠さでした。関わりが薄いということではありません。――なんていうんでしょうね。生きることにおいて、人は圧倒的に「個」的なものというか、例えるなら、一番近い隣人は数キロも先、という風にこの世界を捉えている、というような。安久都さんがそういう性格とか寂しい人間だと言っているのではありません。安久都さんにとって世界はひたすらに「個」であるほかない、という感覚を持っているのではないか、と表現したいだけです。
翻って、「僕たち」というときの安久都さんは、自らから遠くにある人やモノとの距離が縮まったような感覚があるがあるのではないか。そのような意味からの、安久都さんの抱く安心感、期待感のニュアンスを感じた次第です。
さて、ずいぶんと手前勝手に話を進めてしまいました。安久都さんをあたかも解剖するかのように。でも合っていなくてもいいのです。正しくなくてもいい。「僕たち」という言葉から、安久都さんの安心感や期待感を垣間見ることができた気がしただけで私にとっては十分なのです。安久都さんだって、自分の発した言葉が客観的に正しいかどうかなんて関係ないでしょう。安久都さんの「ドロっとした」部分が大きく反応しているかどうかが大事なのではないですか?
2024/8/1 岸本直樹
プロフィール
岸本 直樹
1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。愛知県出身、23年春に妻と川崎から長野県佐久市に移住。24年7月 "書く"オンライン・カウンセリング「夜のカフェテラス」をオープン。
あくつさとし_安久都 智史
1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。