ちいこいいのちだから、ちいこ。本名は『あんず』だけれど、ちいこの愛称はそんなふうにして決まった。
ブリーダーさんからちいこを引き取ったとき、あの子は197グラムしかなかった。ネザーランドドワーフという種類が小柄ということは知っていたけれど、あんまりにも頼りないそのからだつきに、わたしは思わず「みんなこんなにちいさいんですか?」と訊いてしまった。ブリーダーさんからのこたえは「おおきな子は300や400くらいの子もいます」というもので、そのときのわたしは、じゃあこの子はやや小柄なのかなと考え、そのままちいこを引き取った。帰りの電車を待つ時間を使って保険に加入した。自宅にはちいこの生活に必要なものはひととおりそろえてある。これからあたらしい生活がはじまってゆく、そのときのわたしはそう思っていた。
ところが、つぎの日、その生活にあやしい雲がかかった。ちいこのおしりが、臭いのある糞で汚れていたのだ。
うさぎの糞には2種類あって、通常のコロコロとしたかたく無臭のものと、盲腸糞というすこしやわらかく臭いのあるものがある。盲腸糞は本来、肛門にくちをつけて直接うさぎが食べてしまうので、人間が目にすることはほとんどない。けれど、たまに食べのこすこともあるし、きのうの引き渡しのときの健康チェックでも、盲腸糞でおしりが汚れていたから、これも盲腸糞だろう。そのときのわたしは判断をしてしまった。
どうやらそうではなさそうなことに、ようやく気づいたのは2日目だった。月曜日。出勤前にちいこの様子を見てみると、ペレットをまったく食べておらず、おしりもまた汚れており、ゆるい便がそこらじゅうに散らばっていたのだ。
臭いはあるけれど、盲腸糞にしてはゆるい。体重も減っている。
病院に行かなくちゃ。わたしはようやく気づき、仕事をやすんで朝一番で病院に駆け込んだ。ブリーダーさんには、別のうさぎとの交換を提案されたけれど、それは断った。だってもうちいこはわがやのちいこだったから。
診断は風邪と下痢。検便の結果、寄生虫によるものではなかったけれど、うさぎが本来持っているはずの腸内の常在菌がおらず、腸の環境がそうとう悪いようです、と先生に言われた。
仔うさぎの体調不良、とくに下痢はいのちに関わるし、ちいこはほかの子よりもうんとちいさい。いつ死んでもおかしくないです、ということばと、処方された薬、強制給餌用のペレットを胸にかかえて、わたしは家に帰った。
先生から指示をされた強制給餌は3時間おき。仕事をしているので日中はできなくても仕方がないから、朝と夜はできるだけあげてください。というもの。
わたしはすぐに、夜間のアラームをかけた。RevolTrad~維新伝心~。最大音量で夜明けを告げる鐘が鳴りひびくと、過去の経験からかならず起きることができるので、信頼の MaM with 紅月だ。
アラームは3時間ではなく1時間おきにした。いつ死んでもおかしくないということばが胸に嫌なふうに焦げ付いていて、すこしでもおおく様子を見て異変に気づいておきたいという思いから、そうした。
仕事から帰ってきてまっさきにちいこの強制給餌をし、ほかの子たちの食事の準備や掃除をして、自分の食事をして、ちいこの様子を見て強制給餌をし、目をつむって夜明けの鐘が鳴り、様子を見たり強制給餌をし、朝になったら出勤をし、退勤をしてちいこを点滴に連れてゆき、また夜間の給餌をする。
正直なところ、もともと体力のないわたしにはかなりつらいスケジュールだったけれど、わたしがやらなければあの子は死んでしまうという恐怖に似た責任感が、ときおりアラームよりはやくわたしを目覚めさせた。
そんな生活をはじめて1週間。まったくペレットを食べないちいこを押さえてくちにむりやりシリンジを突っ込むのがかわいそうで、泣きながら強制給餌をしていたわたしは、回数をこなすうちに彼女のくちの位置を覚え、くちまわりを汚したり泣いたりすることなくシリンジを入れることができるようになっていた。薬が効いたのか下痢もなくなり、ちいこの体重もすこしずつ増加し、初日はヒーターのうえでうずくまってばかりだった毛玉のようなちいさないのちは、ケージのなかをぴょこぴょこ跳ね回るようになってきた。
生きている。彼女が毛づくろいをするたび、シリンジの中身を噛んで飲み込むたび、牧草を引っ張りだして遊ぶたび、わたしはそう思ってうれしくなる。
ちいこ。うちに来てくれてありがとう。どうかあなたの体格に合う適正体重まで育ち、元気に生きてください。秋の終わり生まれのあなたは、まだ春のいちごも夏のヤングコーンも、秋の梨も食べたことがないでしょう。これから季節がすすむたび、わたしはあなたにいろいろなものを食べてもらいたいです。だから、これからも引き続き強制給餌も仕事もがんばるので、あなたもごはんをもりもりと食べてください。あなたがまだ食べたことのないおいしいものが、この世界にはたくさんあります。ちいこはなにが気に入るかな。
ちいこの気に入るおいしいものがたくさん見つかるよう、わたしは祈りながら、きょうも彼女のくちにシリンジを差し込んでいる。
ここからは追記です。2024年の4月25日をぶじに迎え、半年生きるかどうかわからないと言われたちいこは、ぶじに生後半年になりました。きょうも元気いっぱいにごはんを食べ、部屋のいろんなところでおしっこをしながら散歩をたのしんでいます。がんばったねちいこ、つぎの卯年も一緒にむかえようね。
2024年6月3日の追記です。きょう、ちいこはヤングコーンをはじめて食べました。ちいこはおヒゲではなく皮派だったようです。おいしいね、うれしいね。真夏になったらスイカも食べようね。
