ありがとう、知泉書館。素人には難しい本ではあるが、一般書店でアクセス可能なところに置かれていることに大変に助けられ、励まされている。昨年読んだリウトプランド著・大月康弘訳『コンスタンティノープル使節記』も非常にわくわくした。リウトプランドの別著も邦訳が出ているので読みたいなあ。
感傷をさっぴいても(自分に対して強く思うが、そのような権利は一切ないのでさっぴくべきである)東ローマ帝国の歴史は好奇心の観点から興味深く思っている(とか言うほど自分の中で体系化できていないよ)。上記の第7号でもまた知らない資料が山と出てきて嬉しくなった。轍が積み重なっていることへの喜びは、たとえその全てに手が届かないとしても感じる。
書中の「中世ドイツ文学に見るローマ観──『皇帝年代記』および『ディートリヒの逃亡』を題材に」(山本潤 氏)では、東ゴート王テオドリック/ディートリヒを交差点に挙げて、史実の再構成とは種類を異にするものとして「歴史叙述」と「英雄伝承」の系統があることが述べられている。このうち後者の「英雄伝承」においては、ディートリヒに至るローマ帝国の系譜が史実と全く異なるものとして(しかし、その伝承の史観と現実にどこかアナロジカルな相似形を保ちながら)語られているという。ここで、伝承の前提として語られるローマ帝国に対して「この作品ではローマ帝国はアプリオリに存在」(p.114L5-6)するという表現がされている。
アプリオリとは、言われたらうっすら意味を察するが自分で使うほどには体得していない言葉だ。先験的と訳されてもあまりはっきりしない。経験に先立って存在している、と分解できる。つまり、言うまでもない無条件の大前提として存在していると考えればよいだろうか。
先述のように東ローマの歴史上の興味というところを、私は下手くそなのに説明が好きなので、友達との肩の力を抜いた喋りの場面を想定しながら、どんな風に伝えようかな!?と考えることがよくある(実際の場面では早口のオタクになる)。私が歴史で面白い、かつ気を付けなければいけないと思っているのは、ある事象の影響が遠い土地と時代にまで伝播すること(そして現在の自分にまで至ること)、そのダイナミズム、力学にあるという風に今のところは言語化できる部分を把握している。なので、やはり広がりの元ということで共和制ローマ~帝政ローマの興りから話したいなと考える。すると想像の中の私は「まず共和制ローマというものがあってね」と言い始めるだろうな。
ここに至って、あ! 私も語りの場面でアプリオリにローマを設定しているのかも……ということです。慣れない、難しい言葉であっても、自分の中でだってその意味に近いことを知らぬ間に発生させていたりするものなのかな、と思った。