愛とか人間性について

北見
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突然だが、私は愛というものが何なのか未だによく分かっていない。

24年間生きてきた。とうに大人の仲間入りを果たしたはずなのに情緒発達が5歳の時点で止まっている。どうやら世間一般では主に家族や友人、恋人や伴侶に向けて「愛」という言葉を使うらしいが、いまいちピンとこない。釈然としない。

そもそも私は、他人から愛されているという感覚がとても鈍い。いつからかは知らない(あるいは生まれつきかもしれない)が、恐らく人間として大切なはずの認知能力が欠落したまま大人になってしまった。以前、SNSの匿名ご意見箱で「親に愛されていて羨ましい」と言われた事がある。私はこれを読んで生まれて初めて「私って親に愛されてたんですか!?」と自覚したくらいだ。

家族は私をどう思っているか知らないが、実のところ私は家族の事を愛していない。いや、愛していないとか憎いとかではなくほとんど無関心に近い。これは絶対に彼らの前では言えないが、心の底では生きようが死のうが私自身が損しなければどうでもいいと思っている。通夜葬式ではその場のノリで泣くだろうが、朝起きたら何事もなかったかのように振る舞える確信がある。これが本音だ。

一応家族は人並み以上に大切にしているつもりだ。しかしそれはひとえに私があのコミュニティに所属しているからであって、その動機はすべて義務感に由来する。

私にとって家族という存在は、労働と同じベクトルにある。だから私が時折見せる家族だいちゅきちゅきちゅき仲良しムーブは、大抵はその場のノリや社交辞令が殆どだ。父がするように母に対して無条件で微笑めないし、母のように毎朝おはようと言ったり、父の健康を日常的に鑑みてやる事も出来ない。

未だに親から頭を撫でられたり、手を繋いだり、ハグをされる事がある。私はそんな時決まって「生温かくて気持ち悪いな」と思ってしまう人間だ。血の繋がった親でもそう感じるのだから、他人であれば尚更気持ち悪いと思う。

であれば、我が家のぬいぐるみはどうだろう。ぬいぐるみの場合、ハグしても撫でても気持ち悪いとは思わない。SNSで無責任に「愛してるよブッッッチュ💋」などとほざいたりもする。そして事実、私は十分に彼らを好いていると思う。なぜならぬいぐるみからは自分の体温以外のレスポンスが返ってこないからだ。我ながら随分と手前勝手な、都合のいい愛し方だ。もし仮に何かしらの奇跡が起きて、私が常日頃から執着してやまないクロに自我と体温が宿ったとする。私は即座に彼を燃やすだろう。

家族やぬいぐるみのために死んでも構わないが、それはあくまで私自身がいつ死んでもどうでもいいと考えているからだ。死について、私は完全にその権限を放棄している。

愛し方が分からず、与えられた時の応え方が分からない。面白おかしく暮らそうと努めてはしゃいでみるが、内心何も感じていない。あらゆるすべての事柄を損得感情の秤にかけて、次に取るべき最適解をひたすら血眼で見積もっている。

我ながら、がらんどうな人間になってしまったもんだ。恥を知れ。

@kitamijoshiro
雑記