母のはなし

北見
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私の母は、私が幼い頃気が狂っていた。

私の一番古い記憶は、はじめて母に首を絞められた夜のものだ。確か私が保育園に通っていた頃だったと思う。理由はひどく単純で、母はその日仕事に疲れていた。そのうえ園で虐められた私がいつまで経ってもビイビイと泣き止まないものだから、カッとなって黙らせようと思ったらしい。苦しくて咳が出て、生まれて初めて「死」を強く感じた

母は昼間は朗らかで、とても優しい人だった。だから彼女が豹変する夜が怖くて怖くて仕方がなかった。幼い頃は、本当にいつでも夜が恐ろしかった。

8歳ごろになるまでは不定期に怒鳴られ、無視され、罵られては「ごめんなさい」と連呼して泣いていた。この時間は母の気が済むまで延々と続いた。私が寝入ってからでも問答無用で叩き起こされるのだ。もちろん声をあげて泣いたら頬を打たれるか首を絞められるか、ひどい時は3日ほどまともに口を聞いてもらえなくなってしまうので、私はその頃から声を殺して泣くようになった。

自分の何がいけなかったのか、なぜ母はこんなに怒っているのか、どうすれば許してもらえるのか、どうすれば優しい母に戻ってくれるのか。今考えると原因は私が服を汚したとか人参を残したとか、そういった些細な事だったが。地雷は、どこに埋まっているかわからないから地雷なのだ。私は元々足りない頭をこねくり回して必死に考えて、地雷を踏まぬよう一生懸命祈っていた気がする。

もちろんこんな事を不定期にされては眠れるわけがない。いつでも寝不足だった私は小学校でずっと居眠りしていたので、成績はいつだって最後から数えた方が手っ取り早かった。そしてテストの惨状を見た母がまた怒る。理不尽な負の無限連鎖が続いていた。

私はきっと、精神的に瀕死だった。父は単身赴任でずっといない。祖母は母と不仲で、親戚や従姉妹はあからさまに邪険にしてくる。縋れる対象はクロしかいなかった。助けてくれるような、都合のいい第三者は私の周りにはいなかった。それでも気休めが欲しかったのだろう。何も変わりはしないのに、私はお守りのようにしてクロを寝床に置くようになった。

最後に母から暴力を受けたのは、15の冬の夜だった。原因は定かではないが、癇癪を起こした母が私の背中を何回も何回も何回も蹴ってきた。「頭がおかしい」、「キチガイが」、「お前みたいなの産むんじゃなかった」、「死にたい」。そんな事を捲し立てながら母が背中を蹴ってくる。今でもよく覚えている。私はクロを庇うようにして体を芋虫のように丸めて、ひたすら無心で嵐が去るのを待っていた。クロだけはどうしても守らなければと思った。蹴られた背中はその後あざになって、1週間もしたら跡形もなく消えていた。

その後私の体が成長するにつれ、母の癇癪も徐々になくなっていった。おそらく長年不仲だった祖母が死んだ事と、海外での生活が特効薬となったのだろう。よく笑い、私の事を可愛がるようになった。

母は、今では昼でも夜でも朗らかな、とても優しい人になってしまった。数年前にふと思い出して「あの時のこと覚えてる?」と一度だけ聞いてみた。母は「ごめんねぇ」と心底申し訳なさそうな面持ちで懺悔してきたので、それ以上は追及できなかった。

きっともう、まともな感覚を取り戻した彼女の中では『時効』という扱いになっているのだろう。それでいい。当時、クロに母の手が伸びなかった事だけは幸いだ。私に対する虐待などは些事だから、全て忘れてくれていい。忘れろ。そして出来ればそのいい母親のツラを保ったまま人生を全うしてくれ。

だが時たま、夜になると思い出す。「あの頃の母の、私の首を絞める時のあの顔は、まさしく夜叉のようだったな」と。

@kitamijoshiro
雑記