なんか、日記 20241107

喜雨
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言葉でのインプット/アウトプットが苦手なので、それを自覚してからはさらに小説(や漫画も)など本はめっきり読まなくなってしまった。とはいえ美術館やギャラリーに行くと、キャプションやステートメントはだいたい全て読みに行く。作家やキュレーターがどういう事柄をどんなふうに表現しているのか、それが作品とどんな関連を持っているのか、どんな立ち位置であるのかが知りたいとか、あとは職業柄きになるというのはもちろんあるけれど…何かの「説明」としての文章は読むのが好きなのかもしれない。

そういう意味では、絵本や図鑑の文章は「説明」としての役割が大きい気がするので、だから読めるのか。ニュースを読むのもそんなに苦にならなくて、同じような理屈なのかな。

教育とかにおいて、本は良いけど漫画はだめ、みたいな風潮ありがちだけど、私からすれば普通に漫画も本だなと思う。文章の量とか絵の大きさとかは関係なく、読む、の割合が大きい気がするので…だから、漫画がたくさん読めるというのはひとつの能力、エネルギーだと思う。

読むってどういう行為なのか、考えれば考えるほど分からなくなってくるな…

それはそれとして、本というのが魅力的なのは、手に取れる、時間の止まった形として、存在していること。そういう紙たちを、それも様々な紙種で、装画や製本方法が丁寧に選ばれて、美しく束ねられていること。読む読まないの前に、「物」としてとても価値があると感じている。だから、たとえ読めなくても本は好きだな。(※こんな調子だから、積読が溜まっていくのだ)

本を作りたい、という気持ちが常にある。どんなジャンルでもいいけれど、私は今日の考察からすると文章を書き上げてまとめることがかなり苦手なはずなので、それは小説とか文字ベースのものではないかもしれない。でも、あの組版された文たちが集まっている本というものが好きだから、文章ではなしに、あの「本」の良さを持てるものが作れないだろうか…。

遠回りなトライアンドエラーはまだまだ続きそうだ。

追記)

言葉という媒体は、たとえ詩的だったり含みを持っていたとしても、すごくダイレクトだと思う…書いた・発言したひとの感情、感覚、思考、そういうものがとても具体的に、「そのもの」として入り込んでくる感じがして、とりわけ脳(精神)に余裕がないときはアレルギー反応みたいに拒絶してしまうのかもしれない。

アート(たとえば絵画、立体造形、音楽、ダンス、インスタレーション、などなど(※言葉ももちろんアートになり得るのだけど、とりあえずここではこの区別))でも、感情感覚思考などを表現することがもちろんできるのだけど、言葉ベースでの表現とは全く、そのダイレクトさが土台からして違うというか…

もし私が言葉を作品として昇華させる機会がこれからもあるのなら、いかにそのダイレクトさを和らげるかが課題なのかな、とか、考えたりした。